二種類の「不敬虔」の記事で引用したスポルジョンの不敬虔を指摘する説教を聞いた場合、「無神論・放縦タイプの不敬虔」に該当する人は、「神がいるならどうして理不尽な出来事が起こるのか!?」「不敬虔で何が悪い!?」風のリアクションをして、開き直ったように自らの不敬虔を誇る傾向があるようです。
他方、「宗教・倫理タイプの不敬虔」に該当する人が、不敬虔(宗教的偽善)を指摘する説教を聞いた場合は、以下の二通りのリアクションが返って来ることが多いように思います。(“無反応”というリアクションが最も多いかもしれませんが、それは省略します)
@「いいえ、私は習慣や義務感などからではなく、心から神様を愛し、神様のことを思って礼拝に参加しています!普段も聖書を読み、神様の戒めを尊んでいます!」
A「そのとおりです。今までの私は心の伴わない礼拝を捧げていました・・・。悔い改めます。これからは心を込めて礼拝を捧げ、ちゃんと聖書を読んで、神様に喜ばれるような生活をしていこうと思います。」
無神論・宗教タイプの不敬虔者が、自分の不敬虔を誇るのに対して、宗教・倫理タイプの不敬虔者は、自分の敬虔さを誇る傾向があるようです。@は自分の敬虔さをストレートに誇っているリアクション、Aのリアクションは一見謙虚に見えますが、自分の敬虔さを“決心”などによって改良していき、将来的には誇れるような状態にまで持っていきたいという意図が見え隠れしています。(関連記事:「皮の衣(2)」)
@Aに共通しているのは、両者の目が「自分の敬虔さ」を見つめており、「自分の敬虔さ」を誇りにしようとする路線を歩んでいる、ということです。「自分の敬虔さ」を誇りにしようとしているがために、「不敬虔な者を義と認めてくださる方(=神)」(ローマ4:5)に心を向けることができないのです。
悔い改めとは「思いの変化」「思いの向きを変える」という意味で、それまで自分向きだった思いを、神を見つめる方向へと向け変えることです。Aの人は後悔や反省はしているかもしれませんが、悔い改めてはいません。
無神論・放縦タイプの不敬虔者は「自分の不敬虔さ」を誇っているがために、他方、宗教・倫理タイプの不敬虔者は「自分の敬虔さ」を誇ろうとしているがために「不敬虔な者を義と認めてくださる方(=神)」に心を向けることができない、という結果となっています。神ではなく、「自分」を誇ろうとしている点において両者は共通しています。悔い改めが必要なのはこの点です。
クリスチャンになるとは、「自分の不敬虔さ」や「自分の敬虔さ」を誇りにしている生き方から、「不敬虔な者を義と認めてくださる方(=神)」を誇る生き方へとシフトすることです。「自分の不敬虔さ」あるいは「自分の敬虔さ」を誇りにしようとしている限り、神・キリスト・十字架・福音を誇ることはできません(ローマ5:11、ピリピ3:3、ガラテヤ6:14、ローマ1:16)。
それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。(ローマ3:27)
神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なもの(肉)を頼りにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。(ピリピ3:3)
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