2012年02月01日

人間中心の十字架理解からの解放

藤井武「代贖を信ずるまで」

↑ 藤井武氏の証しです。当初、神の愛の側面のみを強調した人間中心の十字架理解(=キリストの十字架は、人間の必要を満たすためであった)を持つにとどまっていた著者が、内村鑑三氏との議論、神の御前での葛藤を経て、神の義を中心に据えた神中心の十字架理解(=キリストの十字架は、まず神の必要を満たすためであった)を持つに至った経緯が書かれています。

現在、キリスト教会の十字架離れの傾向は進行し、クリスチャンの間で十字架理解についての議論がなされるということ自体がきわめて稀になっていると思われますが、このような状況になった原因は、かつての藤井武氏が持っていたような人間中心の十字架理解を放置し続けたためではないかと思わされます。

思い起こしてみると、私がクリスチャンになる前、教会学校や教会で聞いたキリストの十字架の話は、どれも人間中心な十字架理解に基づいたものだったと思います。

「イエスさまは、私たちのために!そうです!私たちが地獄で永遠に苦しむことのないために、イエスさまが十字架であっれほど苦しんで!私たちのために血を流してくださったのですあせあせ(飛び散る汗)(涙)。・・・・しばらく沈黙・・・・それほどまでに、神さまは私たちを愛してくださったのです・・・揺れるハート。これほど大きな愛があるでしょうか!?」

↑ だいたいこんな感じです。確かにある面においてはそのとおりだと思うのですが、当時の私はこのような話を聞いても「それは有り難い話だとは思うけど、何かがおかしい・・・」と違和感を感じていました。どうも腑に落ちないのです。

「101回目のプロポーズ」というドラマの中で、主人公の武田鉄矢が、道路を走るトラックの前に飛び出して行き、 「僕は死にませーん!あなたが好きだから・・・!!」と叫んで恋人に愛をアピールするシーンがありましたが、あれと似た“パフォーマンス臭”が漂っているといいましょうか・・・。イエスの十字架も「僕は死にまーす!あなたが好きだから・・・!!」と叫んで人間の気を引こうとするパフォーマンスにすぎないのではないか?と思ってしまうわけです。

武田鉄矢「僕は死にませーん!」


今振り返ってみると、この違和感は、神の愛だけを強調している人間中心の十字架理解に対するものだったと思います。人間中心の十字架メッセージには、神が人間に媚びているような安っぽさが感じられました。

その後、「キリストの十字架は人間のためではなく、まず第一に神ご自身のためであった」「キリストの血は我々人間に見せるために流されたのではなく、まず父なる神に見せるために流された」という真理を耳にしたとき、目からうろこが落ちるような経験をしたのを覚えています。「そうだったのか!それなら受け入れるに値する」と思いました。

それまで「神さまはあなたを愛しています!神さまはあなたのために!あなたを救うために!キリストを十字架につけたのです!」という人間中心な十字架話を聞けば聞くほど、まずます心が引いていったわけですが、「勘違いするな!キリストの十字架の第一の目的はおまえなんかのためではない!キリストは父なる神のために十字架にかかったんだ!そのついでにおまえが救われるんだ!」という、人間の自惚れや思い上がりを突っぱねるような神中心の真理に触れたとき、十字架のみわざがとてつもなく大きく堅固なものであることがわかり、良心に安息が来ました。

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2012年01月29日

「まだ知らない」ということがわかればよい

「誰を誇りにしようとしているのか?」の記事で、“悔い改めは後悔や反省とは違う”ということを偉そうに書きましたが、私自身、クリスチャンになろうと求道していた頃はこれらの違いがまったくわかりませんでした。

その頃の私は、「悔い改めたい」という願いはあるものの、具体的にどうすれば悔い改めることができるのかがわからず、悩んでいました。

「悔い改めっていったい何なんだ?」「悔い改めるためにはいったい何をどうすればいいのか?」と思い、信仰書を読んだりもしました。その頃読んでいた信仰入門書「誰にでも出来る信仰生活 幸福はここに」(本田弘慈著)に次のような記述がありました。
「悔い改め」とは文字のように悔いて改めることです。それは後悔とも違いますし、ざんげとも違います。後悔は、後になってすまないことをしたと、悔いることであり、ざんげは自分の犯した罪を、人に告白することです。

しかし悔い改めというのは、自分の罪を悔いて、改めることです。本当の意味は回れ右することだと申します。今まで西に向かって進んでいた人が方向転換して、東に向かって進むということです。
本田弘慈著「幸福はここに」より

この説明を読んでも私にはさっぱり意味がわからず、「“後になってすまないことをした、と悔いること”と“自分の罪を悔いて、改めること”は同じことじゃないの!?」「“回れ右する”っていったい何なんだ?!」「西に向かっていた人が東に向かって進む?さっぱり意味がわからん・・・(汗)」と、疑問は深まるばかりでした。

また、その信仰入門書には、悔い改めとは何であるかを説明するために以下のような二人の青年の事例が書かれていました。
ある時、二人の青年が求道して教会に来られました。一人は二十五才の青年、一人は19才位でした。二人とも外国船の船員さんでした。私は彼らに神の愛とキリストの十字架の救いの道を話して、さらに罪を悔い改めなさいと申しました。

そこで私たち三人はひざまづいて祈りましたが、二十五才の青年は「神様、私はこれから真面目にやります。そして立派な人間になりたいと思います」と。

もう一人の青年は涙を流さんばかりにして「神様、今までの私の罪をお赦し下さい。私は本当に悪い人間でした。今日から心を入れかえて、キリストを信じます」と祈りました。

その年のクリスマスも過ぎた頃、一本の手紙を受け取りました。それはあの年下の青年からでした。「先生、私は幸福です。今、船はカロリン諸島の内を走っています。夜は空に美しい十字星が見えます。私は船室でひとりでクリスマスを祝いました。食堂のボーイさんからもらったリンゴとケーキをテーブルの上に置いて、一人で主イエス・キリストのご降誕を祝っています」

私は、この手紙を受け取った時、胸が一杯になりました。彼は悔い改めてキリストを信じて救いを受けていたのです。しかし、年上の青年からは何の音信もありませんでした。彼の祈りは悔い改めがなかったのです。ただ、よい人になりたいとの願望でした。

悔い改めと願望とは違うのです。どうぞ、間違わないで下さい。心の底より罪を悔いて、改めることです。
本田弘慈著「幸福はここに」より

この二人の青年の話を読んでも、当時の私にはその区別がよくわからず、二人の青年の祈り(青文字部分)を比較してみても「いったいどこが違うんだろう? どうして二十五才の青年の祈りはダメなんだろう?」と不可解に思うばかりでした。

結局、信仰書を読んでも悔い改めが何であるかがわからなかったので、「悔い改めたいのですがどうしたらよいかわかりません。悔い改めを教えて下さい!悔い改めることができるようにして下さい!」と神に祈るばかりでした。

その結果、悔い改めが与えられて悔い改めることができました。そして、悔い改めることができた後で、上に引用した悔い改めを説明する文を改めて読み返してみると「おお!この説明はそのとおりだ!悔い改めとはまさに“回れ右”だ。」と書いてある説明がわかるようになっていました。また、二人の青年の話を読んでも「うーん、この二十五才の青年の祈りは悔い改めがないなー」と悔い改めではないものを区別できるようになっていました。

その後聖書を読んでいくと、悔い改めというのは「神から与えられるもの」であることがわかりました(使徒5:31、11:18)。「悔い改め」は学んで理屈を理解すればできるいうものではなかったのです。ですから、実際に悔い改める前に、悔い改めについての説明を聞いたとしてもチンプンカンプンになって当然なのかもしれません。

実際に悔い改めることができてはじめて見えてくる世界があり、その世界を言葉で説明しようとすると「回れ右」や「方向転換」という表現になり、悔い改めが後悔や反省とは違うものであることがわかるようになるという感じです。このことは、食べ物の味が「食べてみてはじめてわかるようになる」というのに似ています。知的な学問とは違って、霊的な事柄においては、答え(実物)が先に来て、説明や理屈は後でわかるようになることが多いようです。

ではどうして悔い改めについての説明や解説が必要なのかというと、悔い改めについての説明(回れ右、方向転換等)を聞いてもピンと来ない場合は、とりあえず「自分がまだ悔い改めていないこと」「自分が悔い改めを経験的に知らないこと」だけははっきりするからです。

悔い改めに限らず、聖書の真理(例:信仰義認、新生等)についての説明や解説は「自分がまだわかっていないということがわかるため」にあるといえます。そして、自分がまだわかっていない、あるいは自分がそれを持っていないことがはっきりしたのであれば、あとは「私にはまだそれがありません!どうかそれを下さい!私の目を開いてください!」と神に祈り求めればよいのです。

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2012年01月27日

霊的デスモア?(4)〜想定外の展開?〜

↓ ネズミがデスモア(殺鼠剤)一個を完食した模様
P1000335.JPG

昨年末にネズミ撲滅作戦を開始して以来、朝起きた時と外から帰宅した時はネズミがデスモアを食べたかどうかをチェックするのが日課となりました。(チェックするのがひそかな楽しみだったりする^^)

デスモアの量が減っていれば喜び、デスモアの量に変動がない場合は「ネズミ、食べに来なかったんだな・・・」と残念に思います。

それで、デスモアが食べられていた場合は、デスモアを新たに補充する作業を繰り返すわけですが・・・



@デスモア設置⇒Aネズミが食べに来る⇒Bデスモア補充⇒Cネズミが食べに来る⇒Dデスモア補充⇒A〜Dをrepeat...



↑ このような“エサやり”を繰り返しているうちに・・・











だんだんペットを飼っているような心境になってきて・・・ハートたち(複数ハート)











このままデスモアを食べさせ続けてネズミを殺してしまうのがかわいそうに思えてきました・・・(同情涙)揺れるハート










うーむ・・・たらーっ(汗)










これはいわゆる“ストックホルム症候群”なのだろうか・・・ふらふら!?


【ストックホルム症候群】

精神医学用語の一つで、犯罪被害者が、犯人と一時的に時間や場所を共有することによって、過度の同情さらには好意等の特別な依存感情を抱くことをいう。


「なかよくけんかしな」が現実になるとは・・・(汗)




強力デスモア(固型) / アース製薬
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