2012年03月02日

信仰を神の恵み以上に重視してはいけない 〜信仰は恵みが用いる道具にすぎない〜

前回の記事で書いた信仰についてのポイントのまとめです。
・信仰は救いをもたらす「通路」にすぎない

・信仰は神の恵みが私たちの中で働いた結果、出て来るもの

・信仰とはキリストのもとに来ることであって、信仰は神が引き寄せられた結果である(ヨハネ6:44)

・信仰は神の恵みが使う重要な道具の一部にすぎない

・信仰は水道管、神の恵みが水源(信仰は、決してそれ自体が水源なのではない)

・信仰を神の恵み以上に重視してはいけない

・信仰が自分の救いの源であるかのように考えてはならない

・永遠のいのち(救い)は、イエスを見つめることから出るのであり、自分の信仰により頼むことから出るのではない

「信仰は神の恵みが使う重要な道具の一部にすぎない」「信仰を神の恵み以上に重視してはいけない」という点はとても重要なポイントだと思います。私たち人間には、神の恵みと切り離して「信仰」だけを持とうとしたり、信仰を神の恵み以上に重視して、信仰自体を信じる“信仰教”に陥ってしまう傾向があるからです。

「神の恵み」と「信仰」は本来、切り離すことのできないものです。神の恵みから切り離された“単品の信仰”を持っても救いにあずかることはできません。救いに至る信仰を持つためには、神の恵みに目を向ける必要があります。

たとえば、↓ このような形の瓶があり、瓶の中に水が入っているとします。
図1:水が入った瓶.png

この場合、瓶を↓ このように傾けると、瓶の中の水は流れ出てきます。

図2:瓶を傾けると.png

しかし、↓ 瓶の丸い部分を下、管の部分を上にすると水は流れ出てきません。

図3:水が流れ出ない.png

「神の恵み」と「信仰」の関係はこれと似ています。瓶の丸い部分が「神の恵み」、管の部分が「信仰」です。水は「救い」「永遠のいのち」です。

図4:神の恵みと信仰.png

神の恵み(丸い部分)と信仰(管)は一体であって切り離すことができません。そして救いの水は神の恵み(丸い部分)の中にあるのであって、信仰(管)の中にあるのではありません。信仰(管)は救いの水が通る通路にすぎません。

↓ そして、神の恵み(丸い部分)が上、信仰(管)が下に位置しているとき、救いの水は流れてきます。これは、信仰よりも神の恵みが高く掲げられ、重視されている状態です。人が自分の信仰を見つめるのではなく、神の恵みを見つめるのであれば、救い(永遠のいのち)は信仰という通路を通って自然に流れてきます(ローマ10:17、コロサイ1:6)。人は信仰によって救われ、神の恵みがほめたたえられる結果となります(エペソ1:6)。

図5:神の恵みが上、信仰が下.png

↓ しかし逆に、信仰(管)が神の恵み(丸い部分)よりも上に位置しているなら、救いの水は流れ出てきません。これは、神の恵みよりも信仰が重視されている状態です。神の恵みよりも信仰が強調されるとき、神の恵みは知らず知らずのうちに軽んじられるようになり、人の“信じる力”自体が救いの源であるかのように扱われるようになっていきます。その結果、救いの水が流れ出てこれない状態になっています。

図6:信仰が恵みよりも上.png

神の恵みを知ることがないなら、「信じます!信じます!」と強く念じ唱えたとしても救いにあずかることはできません。信仰自体は救いではないからです。この状態をこじらせると、人は、神の恵み(瓶)とは関係のない“自己流の信仰”という管を新たに作り出してしまう危険性もあります(念力、自己暗示、ニューエイジなど)。それで何かが起こったとしても、神の恵みがほめたたえられるのではなく、人間の信仰(信じる力)が崇められるという不健全な結果に終わってしまいます。

繰り返しますが、救いに至る信仰を持つためには、通路にすぎない信仰を見つめるのではなく、水源である神ご自身を見つめ、神の恵みを知る必要があります。神の恵みとは、簡単に言えば「自分が受ける資格のない者であるにもかかわらず、イエス・キリストの十字架の贖いのゆえに、神が与えてくださる」というものです。したがって、以前の記事で書いたように、自分が不敬虔な罪人であるとの認識を持つことは、神の恵みを知るための第一歩ということになります。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。(エペソ2:8)

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2012年02月19日

“「信仰」を信じる信仰”に御用心!

信仰は救いをもたらす通路にすぎないのです。信仰は神の恵みが私たちの中で働いた結果、出て来るものです。聖霊の働きがなければ、だれもイエス・キリストは主であると言うことができません。

「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません」(ヨハネ6:44)とイエスは言っておられます。つまり、信仰というのはキリストのもとに来ることであって、これは神が引き寄せられた結果なのです。

救いの最初であって最後である原動力は恵みです。そして信仰ということも大切に違いありませんが、それは恵みが使う重要な道具の一部にすぎません。

信仰はちょうど運河か水道管の役目を果たしています。恵みがその源であり流れです。信仰とは、飢え渇いた人の子らを生き返らせるために、その中をあわれみがあふれ流れていく水道管です。

水道管が破れることは大変困ったことです。水道管は、水の流れを運ぶために、いつも完全でなければなりません。同じように、信仰も真実であり、しっかりしたものでなければならないのです。上はちゃんと神に届き、下も私たちの所に届いていて、私たちの魂に恵みを送る役割を果たす運河でなければなりません。

繰り返して申します。信仰は、単に運河であり水道であって、決してそれ自体が水源なのではありません。ですから、信仰をすべてのきよい源、つまり神の恵み以上に重視してはいけません。自分の信仰によって、別のイエスをでっち上げてはなりません。また、信仰が自分の救いの独自の源であるかのように考えてはなりません。

私のいのちは、「イエスから目を離さない」(ヘブル12:2)ところから出るのであって、自分の信仰により頼むことから出るのではありません。
C.H.スポルジョン

ただ恵みによって 新版 [単行本] / C・H・スポルジョン (著); 羽鳥 明 (翻訳); いのちのことば社 (刊)
ただ恵みによって 新版 [単行本] / C・H・スポルジョン (著); 羽鳥 明 (翻訳); ...

【自分の信仰をみつめる罠】

私の場合、クリスチャンになった時には“信仰自体を水源とする誤り”に陥ることはなかったと思います。当時の私の周りには、信仰についてあれこれとアドバイスをしてくれる“ヨブの友人たち”のようなクリスチャンがいなかったことが幸いしたのかもしれません。信仰についての知識がほとんどなかったので、信仰を意識することもないままに救われました。

ところが、クリスチャンになって信仰書を読んだり、いろいろな教えを聞いて、信仰についての知識を持つようになると、徐々に「自分の信仰」を意識するようになっていき、知らず知らずのうちに当初の“神を信じる信仰”は“「自分の信仰」を信じる信仰”にすり替わっていきました。

スポルジョンは神の恵みを水源、信仰を水道管にたとえていますが、その頃の私の信仰生活はまるで“配管工”あるいは“水道管マニア”のようでした(苦笑)。みことばの告白、健全なセルフイメージの確立^^、積極的思考を養う(これ系の教えの影響は大きかった・・・)等、水道管(=信仰)の修理・修繕・強化に忙しくするがあまり、水源(=キリストご自身)に目を向けることができなくなっていました(エレミヤ2:13)。

しかし、その頃の私には、自分が神の恵み以上に信仰を重視してしまっていることや、“「自分の信仰」を信じる信仰”に陥ってしまっているという自覚症状はありませんでした。

神の恵みという水が流れてくるためには、信仰という水道管が必要であるのは間違いありませんが、人間は、信仰(水道管)をみつめるようになると、神の恵み(水源)が見えなくなってしまう弱さがあるようです。そして、信仰(水道管)を神の恵み(水源)以上に重視するようになり、もはや信仰は、救いをもたらす「通路」ではなくなってしまうのです。

「神の恵みのゆえに、信仰によって救われる」神の恵み>信仰)
       ↓
「神の恵みが流れてくるためには信仰という管が必要」
       ↓
そこで、信仰をみつめると・・・
       ↓
「神の恵みは私の弱い信仰によって制限されている」
       ↓
「神の恵みは私の信仰にかかっている」(神の恵み<信仰)?
       ↓
「神は私の信仰がなければ何もできない」
       ↓
「私の信仰が神を支配している」
 (神<信仰)?
       ↓
「私の信仰で神を助けてあげなければならない!」
(神<私)?

という倒錯に陥ってしまうのです。

スポルジョンは「自分の信仰によって、別のイエスをでっち上げてはなりません。」と言っていますが、管にすぎない信仰を見つめると、知らず知らずのうちに「私の信仰に支配されている神」「私以下の神」をでっち上げることになってしまい、聖書の福音は、信仰自体を拝む「信仰教」にすり返られてしまうようです。管であるべきはずの信仰自体が「神」「救い主」となり、神ご自身や神の恵みが「信仰のしもべ」に成り下がってしまうのです。

私の場合はクリスチャンになった後で“「自分の信仰」を信じる信仰”の罠にはまったわけですが、これからクリスチャンになろうとする場合もこの点は注意が必要だと思います。

一般的にキリスト教の信仰は「信ずる者は救われる」「救いは信仰のみ」と表現されることが多いですが、これらの表現が曲解された結果、信仰だけが間違ったかたちで強調されてしまうこともあるようです。神ご自身や神の恵み以上に信仰を強調する教えは、キリスト教会の中で流行しているので注意が必要です。

救いは水源である神ご自身から流れてきます。信仰は、救いを運ぶ管にすぎません。水源とつながっていない水道管が役に立たないように、神ご自身(水源)とつながっていない信仰(水道管)も役に立ちません。信仰の対象である神を知ることもないまま、「信じます!信じます!」と念じても救われません。

信仰を意識し始めると、かえって信仰を持つのは難しくなってしまうと思います。むしろ、信仰を意識しなくなってしまうくらいに神ご自身、十字架のキリスト、神の言葉を見つめることが信仰を持つ秘訣といえます。

主よ。私たちに、あなたの恵みを示し、あなたの救いを私たちに与えてください。(詩篇85:7)

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2012年02月17日

「神に対して罪を犯した」の認識

もしだれかが、不敬虔な者を義と認めようと考えたとします。しかし、それを実行することのできる人は、神以外にいないでしょう。自分に対して犯された罪でない限り、罪を赦すことはだれにも不可能なのです。

ある人があなたを傷つけたとすれば、あなたはその人を赦せます。私は、そうしてもらいたいと思います。しかしあなた以外の第三者が、あなたをさしおいてその人を赦すことはできません。あなたに対して悪いことが行なわれているなら、赦しはあなたから出なければならないのです。

私たちが神に対して罪を犯したのであれば、赦すのは神です。なぜなら、罪は神に対して行なわれたものだからです。ダビデが詩篇51篇に、「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました」(4節)と言っているのもそのためです。神が、ご自分に対して犯された罪を取り除くことがおできになるからこそなのです。

そして、私たちの偉大な創造主である神は、もしみこころにかなうことであれば、私たちが神に払わなければならない負債を帳消しにすることができるのです。そして、神が帳消しにすると言われるなら、それは本当に赦されるのです。

私たちは神に対して罪を犯しました。偉大な神のほかには、だれ一人それを消し去ることはできません。ですから、神のもとに行き、その御手にあるあわれみを求めようではありませんか。
C.H.スポルジョン

ただ恵みによって 新版 [単行本] / C・H・スポルジョン (著); 羽鳥 明 (翻訳); いのちのことば社 (刊)
ただ恵みによって 新版 [単行本] / C・H・スポルジョン (著); 羽鳥 明 (翻訳); ...

私が求道していた頃、自分が多くの罪を犯している悪い人間であることはすぐにわかったものの、自分が「神に対して罪を犯した」ということはすぐにはわかりませんでした。

悔い改めることを模索する中で、自分の罪を神に告白してみようと思い、祈りをもって神の御前に出るのですが、口から出る罪の告白のセリフとは裏腹に心の中には次のような思いがわき上がってくるのです。

「自分がたくさんの罪を犯している悪い人間であるのは間違いない。でも、私よりも悪いことをしている人は他にもいっぱいいるじゃないか。というより、多かれ少なかれ人間はみんな悪いではないか。それなのに、どうして自分だけが神に謝らなければならないのだろうか? こんなのは不公平ではないか?」

自分の罪を認め、それを神に告白しようとすると、自分よりもさらに悪いことをしている人々の姿が心に浮かんできて、それらの人々との比較が始まってしまい、「なんで自分だけが謝らなければならないのか!」と神に文句を言いたくなってしまうのです。

これは、多くの車がスピード違反をしているにもかかわらず、自分の車のスピード違反だけが警察の取り締まり網に引っかかり、自分だけに罰金が科せられてしまったときの心境と似ているかもしれません。「スピード違反をしたことは認めるが、どうして私だけを捕まえるのか?!私よりスピードを出していた車は他にもたくさんあったじゃないか!警察のやり方は不公平ではないか!」と逆ギレして、自分の違反は棚に上げて、他の違反者や警察の取り締まりを非難しているようなものです。

そのようになっていた原因は、その頃の私には「神に対して罪を犯した」という認識がなかったからだと思います。「自分の罪によって他人や自分自身に損害を与えたとは思うが、神に損害を与えた覚えはない」と思っているので、“自分の罪”と“神に罪を赦してもらうこと”が一直線に結び付かなかったのです。神に対して犯した覚えのない罪を、神に赦してもらうというのは、関係のない第三者が赦しの現場に現われるようで腑に落ちないものです。(関連記事:「聖霊による認罪」

神に対して罪を犯した」という認識を持つ
    ↓
神に罪の赦しを請う
    ↓
神から罪の赦し、信仰義認の宣告を受けて救われる
    ↓
救われた喜び・平安


というのが論理的な流れなのでしょう。

結局、「神に対して罪を犯した」ということがわからなかった私は、自分の中にある納得のいかない思いや疑問を「納得できません!私にもわかるようにしてください!」という祈りによって神にぶつけました。

すると、神はその後何段階かに分けて、ある時は徐々に、ある時は瞬間的に私の目を開いてくれました。私は神の前に罪人であることがはっきりわかったのです。神の御前で自分の罪を見たときには、“自分より悪いことをしている人々”の存在を持ち出すことなどは全くできず、自分の罪のすさまじさに圧倒されて、ただ神に助けを求めることしかできませんでした。

神の前で自分の罪を認識することは、内省することや、他人との比較の中で自分の罪深さを確認する作業とは別次元のものでした。「たとえ自分が世界で一番聖い人間であったとしても、神の前では何の役にも立たない!!」と腹の底から思えるようになりました。

内省して自分の思いや行ないを調べたり、他人との比較の中で自分の罪を見ていたにすぎなかった頃の私は、罪というのは、憎しみ、姦淫、盗み、悪い考え等の個々の罪を指していると思っていました(もちろんそれらは罪ですが)。

しかし、神との一対一の関係の中で見せられた罪は、そういった個々の罪の問題だったのではなく、それらを含んださらに大きなもの、もっと根本的な罪だったのです。私の全存在や生き方そのものが罪の本元であり、「あれをした、これをした」系の個々の罪は、そこから出てきた実にすぎませんでした。それまでの自分が持っていた罪の定義自体が的外れ(=罪)であったことに気づいて、愕然としました。

クリスチャンになるとは、自分がこれまで犯してきたあれこれの罪をひたすら神に告白するようなことではなく(そのような実行も含むのかもしれませんが)、自分が「神に対して」罪を犯していたこと、自分が(人との比較ではなく)「神の前に」罪人である、と認識することから始まるのだと思います。

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