2012年02月19日

“「信仰」を信じる信仰”に御用心!

信仰は救いをもたらす通路にすぎないのです。信仰は神の恵みが私たちの中で働いた結果、出て来るものです。聖霊の働きがなければ、だれもイエス・キリストは主であると言うことができません。

「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません」(ヨハネ6:44)とイエスは言っておられます。つまり、信仰というのはキリストのもとに来ることであって、これは神が引き寄せられた結果なのです。

救いの最初であって最後である原動力は恵みです。そして信仰ということも大切に違いありませんが、それは恵みが使う重要な道具の一部にすぎません。

信仰はちょうど運河か水道管の役目を果たしています。恵みがその源であり流れです。信仰とは、飢え渇いた人の子らを生き返らせるために、その中をあわれみがあふれ流れていく水道管です。

水道管が破れることは大変困ったことです。水道管は、水の流れを運ぶために、いつも完全でなければなりません。同じように、信仰も真実であり、しっかりしたものでなければならないのです。上はちゃんと神に届き、下も私たちの所に届いていて、私たちの魂に恵みを送る役割を果たす運河でなければなりません。

繰り返して申します。信仰は、単に運河であり水道であって、決してそれ自体が水源なのではありません。ですから、信仰をすべてのきよい源、つまり神の恵み以上に重視してはいけません。自分の信仰によって、別のイエスをでっち上げてはなりません。また、信仰が自分の救いの独自の源であるかのように考えてはなりません。

私のいのちは、「イエスから目を離さない」(ヘブル12:2)ところから出るのであって、自分の信仰により頼むことから出るのではありません。
C.H.スポルジョン

ただ恵みによって 新版 [単行本] / C・H・スポルジョン (著); 羽鳥 明 (翻訳); いのちのことば社 (刊)
ただ恵みによって 新版 [単行本] / C・H・スポルジョン (著); 羽鳥 明 (翻訳); ...

【自分の信仰をみつめる罠】

私の場合、クリスチャンになった時には“信仰自体を水源とする誤り”に陥ることはなかったと思います。当時の私の周りには、信仰についてあれこれとアドバイスをしてくれる“ヨブの友人たち”のようなクリスチャンがいなかったことが幸いしたのかもしれません。信仰についての知識がほとんどなかったので、信仰を意識することもないままに救われました。

ところが、クリスチャンになって信仰書を読んだり、いろいろな教えを聞いて、信仰についての知識を持つようになると、徐々に「自分の信仰」を意識するようになっていき、知らず知らずのうちに当初の“神を信じる信仰”は“「自分の信仰」を信じる信仰”にすり替わっていきました。

スポルジョンは神の恵みを水源、信仰を水道管にたとえていますが、その頃の私の信仰生活はまるで“配管工”あるいは“水道管マニア”のようでした(苦笑)。みことばの告白、健全なセルフイメージの確立^^、積極的思考を養う(これ系の教えの影響は大きかった・・・)等、水道管(=信仰)の修理・修繕・強化に忙しくするがあまり、水源(=キリストご自身)に目を向けることができなくなっていました(エレミヤ2:13)。

しかし、その頃の私には、自分が神の恵み以上に信仰を重視してしまっていることや、“「自分の信仰」を信じる信仰”に陥ってしまっているという自覚症状はありませんでした。

神の恵みという水が流れてくるためには、信仰という水道管が必要であるのは間違いありませんが、人間は、信仰(水道管)をみつめるようになると、神の恵み(水源)が見えなくなってしまう弱さがあるようです。そして、信仰(水道管)を神の恵み(水源)以上に重視するようになり、もはや信仰は、救いをもたらす「通路」ではなくなってしまうのです。

「神の恵みのゆえに、信仰によって救われる」神の恵み>信仰)
       ↓
「神の恵みが流れてくるためには信仰という管が必要」
       ↓
そこで、信仰をみつめると・・・
       ↓
「神の恵みは私の弱い信仰によって制限されている」
       ↓
「神の恵みは私の信仰にかかっている」(神の恵み<信仰)?
       ↓
「神は私の信仰がなければ何もできない」
       ↓
「私の信仰が神を支配している」
 (神<信仰)?
       ↓
「私の信仰で神を助けてあげなければならない!」
(神<私)?

という倒錯に陥ってしまうのです。

スポルジョンは「自分の信仰によって、別のイエスをでっち上げてはなりません。」と言っていますが、管にすぎない信仰を見つめると、知らず知らずのうちに「私の信仰に支配されている神」「私以下の神」をでっち上げることになってしまい、聖書の福音は、信仰自体を拝む「信仰教」にすり返られてしまうようです。管であるべきはずの信仰自体が「神」「救い主」となり、神ご自身や神の恵みが「信仰のしもべ」に成り下がってしまうのです。

私の場合はクリスチャンになった後で“「自分の信仰」を信じる信仰”の罠にはまったわけですが、これからクリスチャンになろうとする場合もこの点は注意が必要だと思います。

一般的にキリスト教の信仰は「信ずる者は救われる」「救いは信仰のみ」と表現されることが多いですが、これらの表現が曲解された結果、信仰だけが間違ったかたちで強調されてしまうこともあるようです。神ご自身や神の恵み以上に信仰を強調する教えは、キリスト教会の中で流行しているので注意が必要です。

救いは水源である神ご自身から流れてきます。信仰は、救いを運ぶ管にすぎません。水源とつながっていない水道管が役に立たないように、神ご自身(水源)とつながっていない信仰(水道管)も役に立ちません。信仰の対象である神を知ることもないまま、「信じます!信じます!」と念じても救われません。

信仰を意識し始めると、かえって信仰を持つのは難しくなってしまうと思います。むしろ、信仰を意識しなくなってしまうくらいに神ご自身、十字架のキリスト、神の言葉を見つめることが信仰を持つ秘訣といえます。

主よ。私たちに、あなたの恵みを示し、あなたの救いを私たちに与えてください。(詩篇85:7)

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この記事へのコメント

クマ郎様. 初めまして。 

エシュコルさんのファースト・グレイプス を読んで来ました。クリスチャンではないけどもよろしく!


"watasi ga yojigen だった頃" も読んだり
しました。

C・H・スポルジョン の話す事には、吃驚させら
れます。  又書いてね。 ^^

"私がVan・H だった頃 の話もビックリ した。


abba,父よ! と言っても救われないのか

 
Posted by ダイエット at 2012年02月28日 19:19
>クマ郎様. 初めまして。

ダイエット様、初めまして。ご訪問&コメントありがとうございますm(__)m

>クリスチャンではないけども
>C・H・スポルジョン の話す事には、吃驚させられます。又書いてね。 ^^

クリスチャンではないのに、スポルジョンの話を聞くことができるとは驚きですね^^。私がクリスチャンになる前は、初信者向けの信仰入門書を読むこともできませんでした。キリスト教の話に全く関心がなく、退屈で死にそうになるという感じで・・・(^_^;)

>abba,父よ! と言っても救われないのか

たとえば、熱いヤカンに触れた人は「熱っ!」などと言いますが、逆に、「熱っ!」と言った人が必ずしも熱いヤカンに触れたわけではありません。ヤカンに触れたまねをしているにすぎないケースもあるわけです。

これと同じように、信仰によって神に触れた人はその結果として「アバ 父よ!」「イエスは主」と言いますが、逆に、「アバ 父よ!」「イエスは主です」と言う人が必ずしも信仰によってキリストに触れたとは言いきれません。神に出会った人のセリフをまねているにすぎないケースもありますから・・・(これらの違いを区別をするのは難しい場合が多いですが)
http://8125150.seesaa.net/article/238295237.html

Posted by クマ郎 at 2012年02月29日 20:35
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