2012年02月17日

「神に対して罪を犯した」の認識

もしだれかが、不敬虔な者を義と認めようと考えたとします。しかし、それを実行することのできる人は、神以外にいないでしょう。自分に対して犯された罪でない限り、罪を赦すことはだれにも不可能なのです。

ある人があなたを傷つけたとすれば、あなたはその人を赦せます。私は、そうしてもらいたいと思います。しかしあなた以外の第三者が、あなたをさしおいてその人を赦すことはできません。あなたに対して悪いことが行なわれているなら、赦しはあなたから出なければならないのです。

私たちが神に対して罪を犯したのであれば、赦すのは神です。なぜなら、罪は神に対して行なわれたものだからです。ダビデが詩篇51篇に、「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました」(4節)と言っているのもそのためです。神が、ご自分に対して犯された罪を取り除くことがおできになるからこそなのです。

そして、私たちの偉大な創造主である神は、もしみこころにかなうことであれば、私たちが神に払わなければならない負債を帳消しにすることができるのです。そして、神が帳消しにすると言われるなら、それは本当に赦されるのです。

私たちは神に対して罪を犯しました。偉大な神のほかには、だれ一人それを消し去ることはできません。ですから、神のもとに行き、その御手にあるあわれみを求めようではありませんか。
C.H.スポルジョン

ただ恵みによって 新版 [単行本] / C・H・スポルジョン (著); 羽鳥 明 (翻訳); いのちのことば社 (刊)
ただ恵みによって 新版 [単行本] / C・H・スポルジョン (著); 羽鳥 明 (翻訳); ...

私が求道していた頃、自分が多くの罪を犯している悪い人間であることはすぐにわかったものの、自分が「神に対して罪を犯した」ということはすぐにはわかりませんでした。

悔い改めることを模索する中で、自分の罪を神に告白してみようと思い、祈りをもって神の御前に出るのですが、口から出る罪の告白のセリフとは裏腹に心の中には次のような思いがわき上がってくるのです。

「自分がたくさんの罪を犯している悪い人間であるのは間違いない。でも、私よりも悪いことをしている人は他にもいっぱいいるじゃないか。というより、多かれ少なかれ人間はみんな悪いではないか。それなのに、どうして自分だけが神に謝らなければならないのだろうか? こんなのは不公平ではないか?」

自分の罪を認め、それを神に告白しようとすると、自分よりもさらに悪いことをしている人々の姿が心に浮かんできて、それらの人々との比較が始まってしまい、「なんで自分だけが謝らなければならないのか!」と神に文句を言いたくなってしまうのです。

これは、多くの車がスピード違反をしているにもかかわらず、自分の車のスピード違反だけが警察の取り締まり網に引っかかり、自分だけに罰金が科せられてしまったときの心境と似ているかもしれません。「スピード違反をしたことは認めるが、どうして私だけを捕まえるのか?!私よりスピードを出していた車は他にもたくさんあったじゃないか!警察のやり方は不公平ではないか!」と逆ギレして、自分の違反は棚に上げて、他の違反者や警察の取り締まりを非難しているようなものです。

そのようになっていた原因は、その頃の私には「神に対して罪を犯した」という認識がなかったからだと思います。「自分の罪によって他人や自分自身に損害を与えたとは思うが、神に損害を与えた覚えはない」と思っているので、“自分の罪”と“神に罪を赦してもらうこと”が一直線に結び付かなかったのです。神に対して犯した覚えのない罪を、神に赦してもらうというのは、関係のない第三者が赦しの現場に現われるようで腑に落ちないものです。(関連記事:「聖霊による認罪」

神に対して罪を犯した」という認識を持つ
    ↓
神に罪の赦しを請う
    ↓
神から罪の赦し、信仰義認の宣告を受けて救われる
    ↓
救われた喜び・平安


というのが論理的な流れなのでしょう。

結局、「神に対して罪を犯した」ということがわからなかった私は、自分の中にある納得のいかない思いや疑問を「納得できません!私にもわかるようにしてください!」という祈りによって神にぶつけました。

すると、神はその後何段階かに分けて、ある時は徐々に、ある時は瞬間的に私の目を開いてくれました。私は神の前に罪人であることがはっきりわかったのです。神の御前で自分の罪を見たときには、“自分より悪いことをしている人々”の存在を持ち出すことなどは全くできず、自分の罪のすさまじさに圧倒されて、ただ神に助けを求めることしかできませんでした。

神の前で自分の罪を認識することは、内省することや、他人との比較の中で自分の罪深さを確認する作業とは別次元のものでした。「たとえ自分が世界で一番聖い人間であったとしても、神の前では何の役にも立たない!!」と腹の底から思えるようになりました。

内省して自分の思いや行ないを調べたり、他人との比較の中で自分の罪を見ていたにすぎなかった頃の私は、罪というのは、憎しみ、姦淫、盗み、悪い考え等の個々の罪を指していると思っていました(もちろんそれらは罪ですが)。

しかし、神との一対一の関係の中で見せられた罪は、そういった個々の罪の問題だったのではなく、それらを含んださらに大きなもの、もっと根本的な罪だったのです。私の全存在や生き方そのものが罪の本元であり、「あれをした、これをした」系の個々の罪は、そこから出てきた実にすぎませんでした。それまでの自分が持っていた罪の定義自体が的外れ(=罪)であったことに気づいて、愕然としました。

クリスチャンになるとは、自分がこれまで犯してきたあれこれの罪をひたすら神に告白するようなことではなく(そのような実行も含むのかもしれませんが)、自分が「神に対して」罪を犯していたこと、自分が(人との比較ではなく)「神の前に」罪人である、と認識することから始まるのだと思います。

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