2012年03月18日

スポルジョン「ただ恵みによって」が限定復刊されます。

いのちのことば社の2012年限定復刊のラインナップが決定したようです。

http://www.wlpm.or.jp/fukkan/

このブログでもたびたび紹介したC.H.スポルジョンの「ただ恵みによって」も復刊されることになりました。

「ただ恵みによって」は、キリストの救いについてとても行き届いた解説がなされており、求道者の方はもちろん、すでにクリスチャンになっている方にもお勧めしたい内容です。

C.H.スポルジョン「ただ恵みによって」目次

  この本を読む方々へ

1.何をしようとしているのか
2.神は不敬虔な者を義と認めて下さる
3.神が義と認めて下さる
4.不義を義とする人
5.罪を犯すことからの救い
6.恵みのゆえに、信仰によって
7.信仰、それは何か
8.信仰は、どのように例証されるか
9.なぜ信仰によって救われるのか
10.ああ、私には何もできない
11.信仰の増加
12.生まれ変わりと聖霊
13.私を贖う方は生きておられる
14.悔改めと罪の赦しは同時
15.悔改めはどのようにして与えられるか
16.最後に堕落する恐れ
17.確証
18.聖徒はなぜ保たれるか

   結び
   あとがき


その他、ウォッチマン・ニーの「キリスト者の標準」やアンドリュー・マーレー「神を待ち望め」「謙遜」「とりなしの祈り」なども復刊されます。


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posted by クマ郎 | Comment(4) | TrackBack(0) | 本・書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月02日

信仰を神の恵み以上に重視してはいけない 〜信仰は恵みが用いる道具にすぎない〜

前回の記事で書いた信仰についてのポイントのまとめです。
・信仰は救いをもたらす「通路」にすぎない

・信仰は神の恵みが私たちの中で働いた結果、出て来るもの

・信仰とはキリストのもとに来ることであって、信仰は神が引き寄せられた結果である(ヨハネ6:44)

・信仰は神の恵みが使う重要な道具の一部にすぎない

・信仰は水道管、神の恵みが水源(信仰は、決してそれ自体が水源なのではない)

・信仰を神の恵み以上に重視してはいけない

・信仰が自分の救いの源であるかのように考えてはならない

・永遠のいのち(救い)は、イエスを見つめることから出るのであり、自分の信仰により頼むことから出るのではない

「信仰は神の恵みが使う重要な道具の一部にすぎない」「信仰を神の恵み以上に重視してはいけない」という点はとても重要なポイントだと思います。私たち人間には、神の恵みと切り離して「信仰」だけを持とうとしたり、信仰を神の恵み以上に重視して、信仰自体を信じる“信仰教”に陥ってしまう傾向があるからです。

「神の恵み」と「信仰」は本来、切り離すことのできないものです。神の恵みから切り離された“単品の信仰”を持っても救いにあずかることはできません。救いに至る信仰を持つためには、神の恵みに目を向ける必要があります。

たとえば、↓ このような形の瓶があり、瓶の中に水が入っているとします。
図1:水が入った瓶.png

この場合、瓶を↓ このように傾けると、瓶の中の水は流れ出てきます。

図2:瓶を傾けると.png

しかし、↓ 瓶の丸い部分を下、管の部分を上にすると水は流れ出てきません。

図3:水が流れ出ない.png

「神の恵み」と「信仰」の関係はこれと似ています。瓶の丸い部分が「神の恵み」、管の部分が「信仰」です。水は「救い」「永遠のいのち」です。

図4:神の恵みと信仰.png

神の恵み(丸い部分)と信仰(管)は一体であって切り離すことができません。そして救いの水は神の恵み(丸い部分)の中にあるのであって、信仰(管)の中にあるのではありません。信仰(管)は救いの水が通る通路にすぎません。

↓ そして、神の恵み(丸い部分)が上、信仰(管)が下に位置しているとき、救いの水は流れてきます。これは、信仰よりも神の恵みが高く掲げられ、重視されている状態です。人が自分の信仰を見つめるのではなく、神の恵みを見つめるのであれば、救い(永遠のいのち)は信仰という通路を通って自然に流れてきます(ローマ10:17、コロサイ1:6)。人は信仰によって救われ、神の恵みがほめたたえられる結果となります(エペソ1:6)。

図5:神の恵みが上、信仰が下.png

↓ しかし逆に、信仰(管)が神の恵み(丸い部分)よりも上に位置しているなら、救いの水は流れ出てきません。これは、神の恵みよりも信仰が重視されている状態です。神の恵みよりも信仰が強調されるとき、神の恵みは知らず知らずのうちに軽んじられるようになり、人の“信じる力”自体が救いの源であるかのように扱われるようになっていきます。その結果、救いの水が流れ出てこれない状態になっています。

図6:信仰が恵みよりも上.png

神の恵みを知ることがないなら、「信じます!信じます!」と強く念じ唱えたとしても救いにあずかることはできません。信仰自体は救いではないからです。この状態をこじらせると、人は、神の恵み(瓶)とは関係のない“自己流の信仰”という管を新たに作り出してしまう危険性もあります(念力、自己暗示、ニューエイジなど)。それで何かが起こったとしても、神の恵みがほめたたえられるのではなく、人間の信仰(信じる力)が崇められるという不健全な結果に終わってしまいます。

繰り返しますが、救いに至る信仰を持つためには、通路にすぎない信仰を見つめるのではなく、水源である神ご自身を見つめ、神の恵みを知る必要があります。神の恵みとは、簡単に言えば「自分が受ける資格のない者であるにもかかわらず、イエス・キリストの十字架の贖いのゆえに、神が与えてくださる」というものです。したがって、以前の記事で書いたように、自分が不敬虔な罪人であるとの認識を持つことは、神の恵みを知るための第一歩ということになります。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。(エペソ2:8)

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