2012年01月29日

「まだ知らない」ということがわかればよい

「誰を誇りにしようとしているのか?」の記事で、“悔い改めは後悔や反省とは違う”ということを偉そうに書きましたが、私自身、クリスチャンになろうと求道していた頃はこれらの違いがまったくわかりませんでした。

その頃の私は、「悔い改めたい」という願いはあるものの、具体的にどうすれば悔い改めることができるのかがわからず、悩んでいました。

「悔い改めっていったい何なんだ?」「悔い改めるためにはいったい何をどうすればいいのか?」と思い、信仰書を読んだりもしました。その頃読んでいた信仰入門書「誰にでも出来る信仰生活 幸福はここに」(本田弘慈著)に次のような記述がありました。
「悔い改め」とは文字のように悔いて改めることです。それは後悔とも違いますし、ざんげとも違います。後悔は、後になってすまないことをしたと、悔いることであり、ざんげは自分の犯した罪を、人に告白することです。

しかし悔い改めというのは、自分の罪を悔いて、改めることです。本当の意味は回れ右することだと申します。今まで西に向かって進んでいた人が方向転換して、東に向かって進むということです。
本田弘慈著「幸福はここに」より

この説明を読んでも私にはさっぱり意味がわからず、「“後になってすまないことをした、と悔いること”と“自分の罪を悔いて、改めること”は同じことじゃないの!?」「“回れ右する”っていったい何なんだ?!」「西に向かっていた人が東に向かって進む?さっぱり意味がわからん・・・(汗)」と、疑問は深まるばかりでした。

また、その信仰入門書には、悔い改めとは何であるかを説明するために以下のような二人の青年の事例が書かれていました。
ある時、二人の青年が求道して教会に来られました。一人は二十五才の青年、一人は19才位でした。二人とも外国船の船員さんでした。私は彼らに神の愛とキリストの十字架の救いの道を話して、さらに罪を悔い改めなさいと申しました。

そこで私たち三人はひざまづいて祈りましたが、二十五才の青年は「神様、私はこれから真面目にやります。そして立派な人間になりたいと思います」と。

もう一人の青年は涙を流さんばかりにして「神様、今までの私の罪をお赦し下さい。私は本当に悪い人間でした。今日から心を入れかえて、キリストを信じます」と祈りました。

その年のクリスマスも過ぎた頃、一本の手紙を受け取りました。それはあの年下の青年からでした。「先生、私は幸福です。今、船はカロリン諸島の内を走っています。夜は空に美しい十字星が見えます。私は船室でひとりでクリスマスを祝いました。食堂のボーイさんからもらったリンゴとケーキをテーブルの上に置いて、一人で主イエス・キリストのご降誕を祝っています」

私は、この手紙を受け取った時、胸が一杯になりました。彼は悔い改めてキリストを信じて救いを受けていたのです。しかし、年上の青年からは何の音信もありませんでした。彼の祈りは悔い改めがなかったのです。ただ、よい人になりたいとの願望でした。

悔い改めと願望とは違うのです。どうぞ、間違わないで下さい。心の底より罪を悔いて、改めることです。
本田弘慈著「幸福はここに」より

この二人の青年の話を読んでも、当時の私にはその区別がよくわからず、二人の青年の祈り(青文字部分)を比較してみても「いったいどこが違うんだろう? どうして二十五才の青年の祈りはダメなんだろう?」と不可解に思うばかりでした。

結局、信仰書を読んでも悔い改めが何であるかがわからなかったので、「悔い改めたいのですがどうしたらよいかわかりません。悔い改めを教えて下さい!悔い改めることができるようにして下さい!」と神に祈るばかりでした。

その結果、悔い改めが与えられて悔い改めることができました。そして、悔い改めることができた後で、上に引用した悔い改めを説明する文を改めて読み返してみると「おお!この説明はそのとおりだ!悔い改めとはまさに“回れ右”だ。」と書いてある説明がわかるようになっていました。また、二人の青年の話を読んでも「うーん、この二十五才の青年の祈りは悔い改めがないなー」と悔い改めではないものを区別できるようになっていました。

その後聖書を読んでいくと、悔い改めというのは「神から与えられるもの」であることがわかりました(使徒5:31、11:18)。「悔い改め」は学んで理屈を理解すればできるいうものではなかったのです。ですから、実際に悔い改める前に、悔い改めについての説明を聞いたとしてもチンプンカンプンになって当然なのかもしれません。

実際に悔い改めることができてはじめて見えてくる世界があり、その世界を言葉で説明しようとすると「回れ右」や「方向転換」という表現になり、悔い改めが後悔や反省とは違うものであることがわかるようになるという感じです。このことは、食べ物の味が「食べてみてはじめてわかるようになる」というのに似ています。知的な学問とは違って、霊的な事柄においては、答え(実物)が先に来て、説明や理屈は後でわかるようになることが多いようです。

ではどうして悔い改めについての説明や解説が必要なのかというと、悔い改めについての説明(回れ右、方向転換等)を聞いてもピンと来ない場合は、とりあえず「自分がまだ悔い改めていないこと」「自分が悔い改めを経験的に知らないこと」だけははっきりするからです。

悔い改めに限らず、聖書の真理(例:信仰義認、新生等)についての説明や解説は「自分がまだわかっていないということがわかるため」にあるといえます。そして、自分がまだわかっていない、あるいは自分がそれを持っていないことがはっきりしたのであれば、あとは「私にはまだそれがありません!どうかそれを下さい!私の目を開いてください!」と神に祈り求めればよいのです。

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2012年01月27日

霊的デスモア?(4)〜想定外の展開?〜

↓ ネズミがデスモア(殺鼠剤)一個を完食した模様
P1000335.JPG

昨年末にネズミ撲滅作戦を開始して以来、朝起きた時と外から帰宅した時はネズミがデスモアを食べたかどうかをチェックするのが日課となりました。(チェックするのがひそかな楽しみだったりする^^)

デスモアの量が減っていれば喜び、デスモアの量に変動がない場合は「ネズミ、食べに来なかったんだな・・・」と残念に思います。

それで、デスモアが食べられていた場合は、デスモアを新たに補充する作業を繰り返すわけですが・・・



@デスモア設置⇒Aネズミが食べに来る⇒Bデスモア補充⇒Cネズミが食べに来る⇒Dデスモア補充⇒A〜Dをrepeat...



↑ このような“エサやり”を繰り返しているうちに・・・











だんだんペットを飼っているような心境になってきて・・・ハートたち(複数ハート)











このままデスモアを食べさせ続けてネズミを殺してしまうのがかわいそうに思えてきました・・・(同情涙)揺れるハート










うーむ・・・たらーっ(汗)










これはいわゆる“ストックホルム症候群”なのだろうか・・・ふらふら!?


【ストックホルム症候群】

精神医学用語の一つで、犯罪被害者が、犯人と一時的に時間や場所を共有することによって、過度の同情さらには好意等の特別な依存感情を抱くことをいう。


「なかよくけんかしな」が現実になるとは・・・(汗)




強力デスモア(固型) / アース製薬
強力デスモア(固型) / アース製薬


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posted by クマ郎 | Comment(6) | TrackBack(0) | その他 日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月25日

誰を誇ろうとしているのか?

何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。(ローマ4:5)

二種類の「不敬虔」の記事で引用したスポルジョンの不敬虔を指摘する説教を聞いた場合、「無神論・放縦タイプの不敬虔」に該当する人は、「神がいるならどうして理不尽な出来事が起こるのか!?」「不敬虔で何が悪い!?」風のリアクションをして、開き直ったように自らの不敬虔を誇る傾向があるようです。

他方、「宗教・倫理タイプの不敬虔」に該当する人が、不敬虔(宗教的偽善)を指摘する説教を聞いた場合は、以下の二通りのリアクションが返って来ることが多いように思います。(“無反応”というリアクションが最も多いかもしれませんが、それは省略します)

@「いいえ、私は習慣や義務感などからではなく、心から神様を愛し、神様のことを思って礼拝に参加しています!普段も聖書を読み、神様の戒めを尊んでいます!」

A「そのとおりです。今までの私は心の伴わない礼拝を捧げていました・・・。悔い改めます。これからは心を込めて礼拝を捧げ、ちゃんと聖書を読んで、神様に喜ばれるような生活をしていこうと思います。」


無神論・宗教タイプの不敬虔者が、自分の不敬虔を誇るのに対して、宗教・倫理タイプの不敬虔者は、自分の敬虔さを誇る傾向があるようです。@は自分の敬虔さをストレートに誇っているリアクション、Aのリアクションは一見謙虚に見えますが、自分の敬虔さを“決心”などによって改良していき、将来的には誇れるような状態にまで持っていきたいという意図が見え隠れしています。(関連記事:「皮の衣(2)」

@Aに共通しているのは、両者の目が「自分の敬虔さ」を見つめており、「自分の敬虔さ」を誇りにしようとする路線を歩んでいる、ということです。「自分の敬虔さ」を誇りにしようとしているがために、「不敬虔な者を義と認めてくださる方(=神)」(ローマ4:5)に心を向けることができないのです。

悔い改めとは「思いの変化」「思いの向きを変える」という意味で、それまで自分向きだった思いを、神を見つめる方向へと向け変えることです。Aの人は後悔や反省はしているかもしれませんが、悔い改めてはいません。

無神論・放縦タイプの不敬虔者は自分の不敬虔さ」を誇っているがために、他方、宗教・倫理タイプの不敬虔者は自分の敬虔さ」を誇ろうとしているがために「不敬虔な者を義と認めてくださる方(=神)」に心を向けることができない、という結果となっています。神ではなく、「自分」を誇ろうとしている点において両者は共通しています。悔い改めが必要なのはこの点です。

クリスチャンになるとは、「自分の不敬虔さ」や「自分の敬虔さ」を誇りにしている生き方から、「不敬虔な者を義と認めてくださる方(=神)」を誇る生き方へとシフトすることです。「自分の不敬虔さ」あるいは「自分の敬虔さ」を誇りにしようとしている限り、神・キリスト・十字架・福音を誇ることはできません(ローマ5:11、ピリピ3:3、ガラテヤ6:14、ローマ1:16)。

それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。(ローマ3:27)

神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なもの(肉)を頼りにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。(ピリピ3:3)



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