2011年09月30日

状況が悪化するのを見る時

状況が悪化するのを見る時、私たちの思いの中に問題が生じるのは事実です。――ヤコブは殺され、ステパノは殉教し、数千の人々がローマの競技場に投げ込まれて虐殺されました。

今日、無数の家庭や家族が破壊され、神の僕や民が投獄されているのを私たちは見ています。「主は御座についておられるのだろうか? 主は万物の上におられるというのは本当だろうか?」と疑問に思うのは難しいことではありません。

しかし、もしこう言ってもよければ、この主の王国は「長期的」なものなのです。

おそらくあなたは走者の競技を見たことがあるでしょう。その競技には一人の卓越した有名な陸上選手が参加しています。選手たちは競技で走り出しますが、その選手は他の選手たちにまったく興味がありません。

他の選手たちを先に行かせ、追い越されても不安な表情は少しも見せません。他の選手の行くがままにします。「他の選手たちが優勢で、この選手は劣勢だ」と誰もが思います。

しかし――最後まで待ちなさい。彼は力を蓄えていて、最後の瞬間、他の選手たちがみな消耗しきった頃に、蓄えてあった力を用いていとも容易に試合に勝ちます。これは実力と持久力の素晴らしい勝利です。

主イエスはこのようです。これが今日まさに起きていることです。主の敵が道を制して先頭に立っているかのように見えます。そして、主はあまり心配しているようには見えません。主に不安、苛立ち、深刻な懸念の様子はまったく見あたりません。

これは主が無関心だからではなく、主はご自分の余力をご存知だからです――主は何ができるか御存知なのです。何度も何度もそうであることが証明されてきました。最後に主は先頭に立って――試合に勝利されます。

主は最初ローマ帝国に対してそうされ、それ以降くりかえしそうしてこられました。主は敵に先を行かせ、敵が道を制しているかのようです。しかし最後には、主の無限の蓄えと能力により、主は勝利を手中に収め――賞を総なめにされるのです。

/第5章「主イエスの昇天と栄光化」より


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posted by クマ郎 | Comment(2) | TrackBack(0) | 苦難・試練の時に | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月28日

キリストとキリスト教(9)〜キリストの中にとどまる〜

私たちは「キリストの中にある」ことによって、「キリストを通して」のみ、すべてのものを受け継ぐ(前回の記事参照)
             ↓
では、どうしたら「キリストの中に」入ることができるのだろうか?

しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。(Tコリント1:30)

クリスチャンは「神によってキリスト・イエスのうちにある」(Tコリント1:30)
             ↓
クリスチャンがキリストの中にあることができるのは、神の働きによる(私たちの働きによるのではない)
             ↓
神の働きによって、すでに私たちはキリストの中に入れられている
             ↓
イエスを信じて救われた人は、これからキリストの中に入ろうと努力しなくてもよい
             ↓
私たちクリスチャンに必要なのは、神によってすでに入れられたキリストの中にとどまっていることである(ヨハネ15:4〜5)
             ↓
私たちがキリストの中にとどまるなら、キリストご自身も私たちの中にとどまる
             ↓
私たちの中にどどまったキリストご自身が、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実を結ぶ(ガラテヤ5:22〜23)

わたし(=キリスト)にとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15:4〜5)

※ペットボトルを海の中に入れて沈めておくと、海がペットボトルの中に入ってくる。すなわち、ペットボトルが海の中にとどまるなら、海もペットボトルの中にどどまる。これと同じように、私がキリストの中にとどまるなら、キリストが私の中に入り、私の中にとどまってくださる。

聖書は、人に善を行なうようにとか、悪を改めるようにと勧めるものではない。聖書は、人に「キリストの中にとどまれ」と教えている。

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2011年09月23日

キリストとキリスト教(8)〜イエスご自身を得るなら、生きた教理も得る〜

1.神は「キリストを通して」与える

聖書が教理を語っている箇所をみれば、「キリストにあって」「キリストの中で」(in Christ)という言葉が至るところにあることに気づくはず
          ↓
神は私たちに直接何かを与えてくださるのではなく、「キリストを通して」与えるのである
          ↓
イエスご自身を得るなら、イエスの教理も得る
          ↓しかし
イエスご自身を得なければ、たとえすべての教理を得たとしても何の役にも立たない

2.他の宗教との違い

図1 キリスト教 他の宗教.jpg

他の宗教の場合、宗教の教理と教祖は無関係なので、教理を自分に適用する場合に教祖と関係を持つ必要はない
                 ↓しかし
キリスト教においては教理とキリストご自身は不可分であり、すべての教理はキリストというお方(パースン)を土台にしている
                 ↓
人はキリストご自身と直接関係を持ってはじめて、生きた教理を持つことができる
                 ↓
教理に親しむだけであって、キリストご自身と関係を持たないのであれば、私たちには力がない

3.具体例

・人の罪が赦され、義とされるのは「キリスト・イエスの贖いを通して」である(ローマ3:24)

・私たちは「イエス・キリストを通して」神と和解させられる(ローマ5:1)

・私たちは「キリストを通して」神の恵みの中に入る(ローマ5:2)

・私たちは「御子の死を通して」「彼の命を通して」救われる(ローマ5:10)

・私たちは「主イエス・キリストを通して」神を喜びとする(ローマ5:11)

・私たちは「ひとりのイエス・キリストを通して」いのちにあって支配する(ローマ5:17)

・私たちは「主イエス・キリストを通して」永遠のいのちを得る(ローマ5:21)

・私たちの古い人は「キリストと共に」十字架につけられた(ローマ6:6)

「キリストの中で」自分は罪に対して死んだ者であり、神に対しては生きた者だと認めなさい(ローマ6:11)

・私たちの「主イエス・キリストを通して」、ただ神に感謝する(ローマ7:25)

・決して罪に定められることがないのは「キリスト・イエスの中にある者」(ローマ8:1)

・私たちを罪と死の原理から解放したのは、「キリスト・イエスの中にある」いのちの御霊の原理(ローマ8:1)
         
・私たちは、「私たちを愛してくださった方を通して」圧倒的な勝利者となる(ローマ8:37)

※新改約聖書の「キリストによって」は最上の訳ではなく、「キリストを通して」と訳したほうがよい

※ただ「キリストを通してのみ」、私たちはすべてを受け継ぐことができる

※罪の赦しの教理、信仰義認の教理、罪からの解放の教理、肉の情欲に打ち勝つ方法等はすべて、イエスご自身に結びついている

※私たちを罪から解放する力、圧倒的な勝利者となる力は、キリストの中にある

私たちは「キリストの中にある」ことによって、「キリストを通して」のみ、すべてのものを受け継ぐ


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