2011年07月27日

二種類の認識(3)

4.七人の弟子たちの事例

この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった。

シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。

シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。

夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。(ヨハネ21:3〜4)


ペテロ、ヨハネ、ヤコブはそれまでずっと主と一緒にいた
ナタナエルは主をはじめから知っている者たちの一人であった(ヨハネ1:45〜51)
トマスは復活した主イエスを手でさわったことがあった(ヨハネ20:27)
            ↓ところが
イエスが岸辺に立たれていても、弟子たちにはそれが主であることがわからなかった
            ↓
彼らが復活した主イエスを知るには、別の経験と別の力を必要としたということ

イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」

イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。

そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。(ヨハネ21:5〜6)


イエスがご自分を啓示すると、突然、弟子たちは主イエスを認識した
            ↓
真のキリスト教とは、啓示によって主イエスを知ることである
            ↓
啓示とは内側で見ることであり、内側で知ることであり、内側の力である
啓示によって主イエスを知ることは、人に新しい力を与える

イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか。」とあえて尋ねる者はいなかった。(ヨハネ21:12)

弟子たちは、その方が主イエスであることをすでに知っていたにもかかわらず、同時に「あなたはどなたですか。」と尋ねてみたいと思っていたことを表している
            ↓         
弟子たちは外側では「この方は誰だろう?」とまだ考えていたが、内側ではそれが主イエスであることを知っていたということ
            ↓     
弟子たちの外側の認識「この方が誰であるかわからない。誰であるか尋ねてみたい。」
弟子たちの内側の認識「私は彼が主イエスであると知っている。だから尋ねる必要はない。」
            ↓
内側ではわかっているが、外側ではわかっていないので、主に尋ねてみたくなる経験
            ↓
一方(外側)では何もわからないが、もう一方(内側)では非常にはっきりしているという経験をクリスチャンは持つ
            ↓
啓示による認識 = よくわからないが(=外側)、はっきりとわかっている(=内側)
            ↓
啓示は、人を内側ではっきりさせる
啓示は、人が内側で何かをはっきり知ることである
啓示によって主を知る人だけが、神の御前で力を持つ
啓示によって内側の認識を持つなら、揺り動かされることはない
            ↓        
外側の知識は内側の知識(啓示)に取って代えることはできない
            ↓
私たちは、主に対する内側の認識を持たなければならない
私たちは、主に目を開いていただくことを求めなければならない

ですから、私たちは今後、人間的な標準で(直訳:肉によって)人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準で(肉によって)キリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。(Uコリント5:16)

どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。(エペソ1:17〜19)


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2011年07月20日

二種類の認識(2)

3.エマオ途上の二人の弟子たちの事例

ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。

話し合ったり、論じ合っているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。(ルカ24:13〜16)


復活したイエスはふたりの弟子に近き、共に道を歩いて会話をしたが、弟子たちの目はイエスを認識することはできなかった
              ↓
彼らは肉体にあるイエスは知っていたが、復活された主を認識することはできなかった
              ↓
復活は奥義的なことであり、彼らはイエスの復活を信じることができなかった(ルカ24:19〜26)

それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた

彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ生きそうなご様子であった。それで、彼らが、「いっしょにお泊りください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。(ルカ24:27〜29)


ふたりの弟子たちは、イエスからご自身についての聖書の説き明かしを受け、それらを聞いて感動して心が内側で燃えるまでになっていたのにもかかわらず(ルカ24:32)、依然として主イエスがわからなかった
          ↓すなわち
聖書の教理を理解すること啓示は異なったものであるということ
          ↓
彼らは聖書を理解したが、主イエスを知らなかった
彼らはキリストについての教えは知っていたが、キリストご自身は知らなかった

※聖書の説き証しを受け、それに感動して心が燃えるようになることは良いことだが、その段階に留まり続けるべきではない。イエスご自身を知るまでは満足しない。

彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。(ルカ24:30〜31)

イエスがパンを裂いて彼らに渡されたとき、彼らの目は開かれて、彼らがその方がイエスであることを認識した
          ↓
単にパンを裂いて彼らに渡しただけではなく、ご自身を啓示されたということ

※名前を呼ぶ(マグダラのマリヤの場合)、パンを裂いて渡す(ふたりの弟子たちの場合)など体験面ではなく、主イエスご自身についての内側の啓示があったかどうかが重要
【主を知る二つの認識】

@聖書から来る認識(知性による理解)
A主が人の目を開いたときに来る認識(個人的な啓示)
                 

主を知るためには@A両方の認識を持つ必要がある
         ↓
@で知るのは、イエスについての教え(事物)
A
で知るのは、イエスのパースン(人格)
         ↓
聖書がなければ、この世界にキリスト教は存在しない
啓示がなければ、私がキリストを個人的に持つことはない

※Aの認識を先に持った場合、聖書知識がないと、自分が認識したことを自分自身がよくわからないという状態となる。そのため、自分が認識したものを他の人に適切に伝えることもできなくなってしまう

私たちクリスチャンの一つの問題は、知識の多くが「伝達された」知識であること
          ↓
多くの場合において、一人の人が自分の思いを持って理解した知識を、他の人の耳へと伝達しているにすぎない
          ↓
たとえ啓示を受けた一人のクリスチャンの教えを知性で理解したとしても、自分自身に啓示がなければそれらはただの教理や教えにすぎない(個人的な啓示を受ける段階を省略することはできない)
          ↓
主イエスを知らずに聖書の知識を持つのは役に立たない
          ↓
主イエスについての唯一の真の認識は、啓示による内側の認識である

あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたし(=イエス)について証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたし(=イエス)のもとに来ようとはしません。(ヨハネ5:39〜40)

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2011年07月17日

二種類の認識(1)

以下はウォッチマン・ニーの「主に対する二種類の認識」というメッセージのポイントをまとめたレジュメです。

私は書物を読む際、自分がその内容をよく理解するためにパソコン上にポイントをまとめたレジュメを作ることが多いのですが、パソコンの中に貯めたままにしておくのもあれなので今後は時々アップしていこうと思います。

1.主イエスに対する二種類の認識

ですから、私たちは今後、人間的な標準で(直訳:肉によって)人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準で(直訳:肉によって)キリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。(Uコリント5:16)

けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、人には相談せず、(ガラテヤ1:15〜16)


主イエスに対する認識には二種類のものがある

@肉による認識
A霊による認識


2.マグダラのマリヤの事例

彼女(マグダラのマリヤ)はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。(ヨハネ20:14)

マグダラのマリヤは以前、主イエスをよく知っていたが、イエスの復活後はイエスを見ても、それがイエスであるとは全く認識できなかった
           ↓その理由
肉体を着ておられた御子は、十字架につけられ復活されたから
           ↓    
復活したイエスはもはや、マリヤの知っていた主イエスではなく、マリヤの知らないイエスになっておられた
           ↓
復活したイエスはもはや肉体にある主イエスではなく、霊にある主イエスであった
           ↓
肉体にある主をマリヤが知っていた方法では、もはや主を知ることができなくなっていた

イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女はそれを園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」(ヨハネ20:15)

マリヤは復活した主イエスを「園の管理人」と認識していた
           ↓
マリヤは以前は目、耳、理解力を使って主イエスを知っていたが、イエスの復活後は目、耳、理解力によって主を知ることができなくなっていた
           ↓
古い方法(目、耳、理解力によって知る)によって、肉体にある地上の主イエスを知ることは可能であったが、復活し、霊となられた天的な主イエスを古い方法で知ることはもはや不可能であった
           ↓
死者の中からの復活によって主イエスは変化されたので、変化されたイエスをマリヤが知るためには、マリヤの側に変化が必要であった
           ↓
マリヤが復活した主イエスを知るためには啓示を得る必要があった

イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」 彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。(ヨハネ20:16)

イエスがマリヤの名前を呼ばれたとたん、マリヤはその方が主イエスであると認識した
           ↓
イエスはただ単にマリヤの名前を呼んだだけではなく、マリヤにご自身を啓示された
           ↓
イエスがマリヤの名前を呼ぶと、マリヤは突然内側ではっきりと認識した
           ↓
啓示とは、イエスがそこに立って自分を指差して「私がイエスである」と言われることではなく、人が突然に、また説明のつかない方法で主イエスを知るようになることである
           ↓
啓示は、耳や目や肉体の感覚、その他のどんな知覚力からも来ることはない
啓示は、耳や目の理解力を超えた認識である

※啓示(アポカリプシス)=「覆いを取り除く」の意味。例:銅像の除幕式
※神学の世界では全66巻の聖書を指して「啓示」と呼ぶことがある。したがって、「啓示を得た」という言葉を不用意に使うと、「聖書以外の啓示を得た」の意味で捉えられ、誤解を招いてしまうこともあり得るので注意を要する。
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