2011年04月27日

ローマ7章の葛藤状態にある人は「心にいだく不義がある人」ではない

もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。(詩篇66:18)

新生したクリスチャンであれば、必ず「私は自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っている」というローマ7章の葛藤を経験すると思います。

ローマ7章の葛藤状態にあるクリスチャンが「私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。」(詩篇66:18)という聖句を読んだ場合、「これは私のことだ。私の祈りは聞き入れられないのか・・・」と考え、祈ることについても失望してしまうかもしれません。

ローマ7章の葛藤にあるクリスチャンは、主観的な罪定めを経験しているために、敗北している自分を「心に不義をいだいている者」とみなす傾向が強くなるからです。

しかし、ローマ7章の葛藤状態にあるクリスチャンは「心にいだく不義がある」人ではありません。むしろ、ローマ7章の葛藤状態にあるクリスチャンは「心にいだく不義がない」人なのです。ウォッチマン・ニーの言葉を引用します。
「心に不義をいだく」とはどういうことでしょうか? それは捨てるに忍びない罪があることです。自分では知っているのに、心の中に保留している罪があることです。行為において、外側の現れにおいてこの弱さがあるだけでなく、心に抱いているのです。

ローマ人への手紙第7章のかの人は異なっています。彼は失敗しますが、自分の行なった事を憎んでいます。ここの人は、心に不義をいだき、その罪を残したままにし、捨て切れず、手放し切れないでいます。その罪は、行為の上で手放し切れないばかりか、心の中でも手放せないのです。このような人の祈りを主は聞かれません。

一つの罪があるだけで、あなたの祈りが神に聞かれないほどの十分な妨げになるのです。ですから、わたしたちは捨て切れないような罪も何も心にとどめ置いてはなりません。あらゆる罪を罪と認め、それらをすべて血の下に置かなければなりません。

主はわたしたちの弱さを思いやってくださいます。しかし、わたしたちが心に不義をいだいていることを、放任することはなさいません。たとえあなたが表面的にはすべての罪を離脱していても、心に不義をいだき、捨て切れず、手放せないなら、祈っても役に立ちません。

ウォッチマン・ニー

まとめると、

<ローマ7章の人>

行為において、外側の現われにおいて、罪を手放し切れていないが、心の中では自分が行なっていることを憎んでいる(罪を憎んでいるがゆえに葛藤している)
           ↓
ローマ7章の葛藤状態にある人は「心にいだく不義」はない
           ↓
ローマ7章の葛藤状態にある人の祈りは「主に聞き入れられる」

<詩篇66:18の「心にいだく不義がある人」>

@行為において、外側の現われにおいて、罪を手放し切れていないばかりか、心の中でも罪を手放し切れないでいる

A行為や外側においては罪を離れているが、心の中では罪を捨て切れずにいる

           ↓
心にいだく不義がある人の祈りは「主に聞き入れられない」

ということになります。「心の中に不義をいだいているかどうか」がポイントです。

ローマ7章の葛藤状態にあるクリスチャンは詩篇66:18の「心にいだく不義があるなら」に該当しておらず、その人の祈りは主に聞き入れられます。この場合、行為や外側の現われにおいて罪を手放すことのできないでいることは「心にいだく不義」ではなく「弱さ」ということになります。私たちの大祭司イエスは、私たちの弱さに同情できない方ではありません(ヘブル4:15)。

ローマ7章の葛藤状態は、葛藤する本人は苦しく、「クルシチャン」と呼ばれてしまうなど、悪く捉えられることが多いですが、その葛藤は「律法は良いものであると認めている」こと(ローマ7:16)、「心にいだく不義がない」ことの証拠でもあります。むしろ、ローマ7章の葛藤の経験は、祈りが聞き入れられるための前提条件とさえ言えるかもしれません。

逆に、特に問題がなさそうにみえる時こそ、心の状態に注意を払う必要がありそうです。ローマ7章の葛藤の経験がない人、上記Aの表面的に罪を離れている状態にある人は「心にいだく不義」に十分注意しなければならないでしょう。

「信仰によって義と認められた」という客観面(神の御前での立場)を強調し、「私は信仰による義人です。義人の祈りは働くと大きな力があります!」と告白し、大胆に祈りながらも、心に不義をいだいていることはあり得ることです。

信仰義認強調型の“力強いクリスチャン”とローマ7章の葛藤状態にある“クルシチャン”が祈った場合、人間の目にはいかにも聞き入れられそうにみえる前者の“大胆な祈り”は主に聞き入れられず、後者の“弱々しい祈り”が聞き入れられている、ということもありそうです(ルカ18:9〜14)。

自分の状態にかかわらず、信仰義認の立場にたって大胆に祈ること(客観面)と、自分の心に不義をいだかないようにすること(主観面)は両立させなければなりません。「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の法則」(ローマ8:2)のみが、前者と後者を絶妙に調和させることができるのだと思います。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
web拍手 by FC2
posted by クマ郎 | Comment(0) | TrackBack(0) | 祈りについて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月20日

十字架は私たちを“キリスト教”からも救う

「皮の衣(3)」の記事で、
皮の衣=イエスの身代わりの死」とするのみで、皮の衣に「自分自身の死」をみないのであれば、結局、いちじくの葉による腰のおおい路線(死のない宗教生活)に逆戻りすることになる

と書きました。

また、「祈っている相手に一向に変化が見られないとき」の記事では、
祈っている相手側の変化を期待するには、まず祈る自分に変化がある必要がありますが、単に自分の振る舞いを変える等の「変化」は役に立ちません。自己を改善・改良することによって生じた「変化」は、アダムが作ったいちじくの葉による腰のおおいのようなものであり、アカンが隠し持っていたシヌアルの外套(ヨシュア7:21)と変わりのないものです。それらは変化ではなく、取り繕いにすぎません。「取り繕いによる変化」という“アカン”も対処しなければなりません(使徒5:1〜10)。

と書きました。

それではどのようにして「宗教による取り繕い」(いちじくの葉による腰のおおい路線)から救われるのでしょうか? また、「取り繕いによる変化」という“アカン”はどのように対処されるのでしょうか?

ペン・ルイスの「栄光の奥義」という書物の中に、これらに関連したことが書かれていたので以下に引用します。「キリストの身代わりの死」を受け入れて救われたクリスチャンが、その後、宗教による取り繕い路線に逆戻りしてしまう様子が書かれています。また、「私自身もキリストと共に十字架につけられた」という真理によって、クリスチャンが「宗教による取り繕い」から解放されるプロセスについての具体的な描写もあります。

神の子供たちである私たちが、キリストのように生きることに完全に失敗して、この努力をやめる時、それは大きな前進の一歩です!キリストのようになろうと私たちが努めることを、神は耐え忍ばなければなりませんでした。それは、神の聖なる御子の生活を模倣することは人間には不可能であることを私たちが見いだすためでした。

私たちが自分自身を救おうとしたり、自分を神にふさわしい者にしようとした時、懸命の努力にもかかわらず、私たちは自分が「一向によくならず、かえって悪くなる一方」であることを見いだしました。

それと同じように、私たちの救いの問題が解決した後、私たちはまたもや同じことをしようとして、「今や私たちの罪は赦されたのだから、主の助けにより私たちは主を喜ばせることができ、主のために働くことができる」と考えてしまうのです。そこで再び私たちは試すことを許されるのですが、失敗して、ただ自分の無力さを悟ることになります。

「自分は神にささげる『賜物』を持っている」とぼんやりと考えていて、「神は古い命を聖化して、自分を改善してくださる」と期待している人が、私たちの間にも何と多いことか!

ある人がかつて言ったように、私たちが終わらされる道は長い道のりであり、「私の内には(中略)何も良いものがありません」(ローマ7:18)と心から真に喜んで言えるようになるにはとても長い時間が必要であるように思われます。サウル王のように私たちは自分の判断力を用いて、みすぼらしくて価値がないと思うものは喜んで滅ぼすのですが、奉仕のために神にささげるのに「良い」と思うものは惜しんでしまうのです。

聖霊はしばしば痛ましい経験を通して、私たちは何者でもないこと、私の善すら堕落していることを私たちに教えなければなりません。なぜなら、私たちの古い命から出るものはみな、罪の呪いの下にあるからです。

神のご計画はこの古い命を改善することではなく、私たちがそれを死―十字架の死―に渡すことです。なぜなら、神の目から見て、古い命はキリストがカルバリで死なれた時、実際にキリストと共に十字架につけられたからです。

「私」があってはなりません。キリストを喜ばせ、キリストのために働こうとする、外見上よく見える「私」でさえもあってはなりません。「私」のあらゆる面に対して神は死の判決を下されました。私たちは神のこの判決を認めて受け入れなければなりません。そして、「私」のあらゆる面をすべてカルバリの十字架に渡さなければなりません。

私たちの目が開かれて、「キリストと共に十字架につけられ、彼の十字架に彼と共に釘づけられた」という私たちの立場を見る時、そして、真の自己否定というこの十字架につけられた生活を生きる時、神の御霊は内側にキリストを啓示することによって証しして下さいます。もはや、ぼんやりしたかすかな主ではなく、ある人が言ったように「内なる救い主!」です。

ジェシー・ペン・ルイス著「栄光の奥義」より引用
キリストの身代わりの死を受け入れて救われた人は、

「今や私たちの罪は赦されたのだから、主の助けにより私たちは主を喜ばせることができ、主のために働くことができる」

「自分は神にささげる『賜物』を持っている」

「神は古い命を聖化して、自分を改善してくださる」


と考える傾向があります。また、しばしばキリスト教の世界では、これらの考えに基づいた実行が奨励されています。しかし、これらの考え・実行は“いちじくの葉による腰のおおい路線”のものであり、決して神に受け入れられるものではありません。

これらの実行は、創世記の事例で例えるなら、皮の衣を着せられたアダムとエバが、神に受け入れられたことに安心し、再びいちじくの葉で腰のおおいを作り始めてしまうことであり、また、カインのささげ物(=地から出たもの、死を通過していない働きの実)をささげることに等しいものです。

キリストの十字架は、私たちを地獄や罪を犯すことから救っただけではなく、私たちを“キリスト教”という宗教による取り繕いからさえも救い出しました。「キリストのように生きることに完全に失敗」することや、「自分が一向によくならず、かえって悪くなる一方」等の「痛ましい経験」を通して、私たちを“キリスト教”から解放しようとしている十字架の死の働きに抵抗しないようにしたいものです。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
web拍手 by FC2
posted by クマ郎 | Comment(5) | TrackBack(0) | 真理の学び 十字架 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月15日

祈っている相手に一向に変化が見られないとき

祈りには、祈る側と祈られる側の両側があります。多くの時、祈られる側に変化して欲しいなら、祈る側の人がまず変化しなければなりません。

もし相手側に一向に状態の変化が見られないなら、こちら側は神の御前で尋ね求めて言わなければなりません、「主よ! わたしにはどんな変化が必要なのでしょうか? わたしにまだ対処していない罪があるのでしょうか? 手放さなければならない好き好みがあるのでしょうか? わたしは本当に信仰の学課を学んでいるでしょうか? あるいは、わたしには何か別に学ぶべきことがあるのでしょうか?」。

もしわたしたちの側で変化が必要なら、先に変化しなければなりません。自分が変化していないのに、祈っている相手側の変化を期待することはできません。

ウォッチマン・ニー

【ひとこと】

「祈る側の人がまず変化しなければならない」とありますが、この場合の変化とは、自己を改善・改良することによる“足し算タイプの変化”ではなく、「自分の無知や盲点に気づく」「自己を十字架の死に渡して取り除く」「心に握りしめていたものを手放す」という“引き算タイプの変化”です(マタイ7:5)。

イスラエルの民がアイで敗北したのは、アカンの罪が原因でした(ヨシュア7:11〜12)。イスラエルの民が敗北の原因となった罪の存在を知り、罪を犯したアカン自身とアカンに属するもの全てを一掃するまでは、イスラエルはアイに勝利することはできませんでした。

最初にイスラエルの民がアカンを取り除くことによって“変化”しました(ヨシュア7:16〜26)。すると、アイとの戦況も“変化”しました(ヨシュア8:1〜29)。イスラエルの民が“変化”するまで、戦況は“変化”することはなく、敗北状態が続きました。

もしイスラエルの民が、敗北の原因となっていたアカンの罪を知らないままであったなら、あるいは、アカンの罪を知ったとしても、アカンを“改良・改善・更正”するだけにとどめ、完全に取り除こうとしなかったなら、イスラエルがどんなに熱心に祈ったとしても、アイに対する勝利(ヨシュア8:28)を見ることはなかったでしょう。

祈っている相手側の変化を期待するには、まず祈る自分に変化がある必要がありますが、単に自分の振る舞いを変える等の「変化」は役に立ちません。自己を改善・改良することによって生じた「変化」は、アダムが作ったいちじくの葉による腰のおおいのようなものであり、アカンが隠し持っていたシヌアルの外套(ヨシュア7:21)と変わりのないものです。それらは変化ではなく、取り繕いにすぎません。「取り繕いによる変化」という“アカン”も対処しなければなりません(使徒5:1〜10)。

人の変化のために祈る場合、祈る側の自分がまず変化する必要がありますが、こちら側の変化が十字架の死を通過したものではなく、宗教的な取り繕いにすぎない場合、相手の変化のために祈れば祈るほど、ますます相手が頑なになってしまうケースがあるようです・・・(経験者は語る?)

偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。(マタイ7:5)
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
web拍手 by FC2
posted by クマ郎 | Comment(0) | TrackBack(0) | 祈りについて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
タグクラウド
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。

クリスチャンウェブリング
前へ | ホーム | ランダム | 次へ