2011年03月27日

「アブラハムへの祝福の約束」と「モーセ律法」の関係

・神の意図は当初から「祝福の約束」(片務契約)であった=救いは当初から信仰による(創世記15:9〜17)

・神のアブラハムへの祝福の約束は、その後四百三十年たってできたモーセ律法によって取り消されたり、無効とされたりはしない(ガラテヤ3:17)

・律法は、約束の子孫であるイエスが来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたものにすぎない(ガラテヤ3:19)

・十戒などのモーセ律法は、人に守らせるために与えられたのではなく、人に破らせるために与えられたものである(Tテモテ1:8〜11)

・律法を行なうことによって神に正しいと認められる人はひとりもいない(ガラテヤ2:16)

・十戒等の律法は救いの方法(クリスチャンになる方法)として与えられたのではない

・救われる方法は、イエスをキリスト(=罪からの救い主)として信じて受け入れること

・「律法の行ないによっては義と認められず、キリストを信じる信仰によって義と認められる」ことを知って、キリストを信じる(ガラテヤ2:16)

・律法は私たちには自力救済が不可能であることを示し、私たちをキリストによる救いに導くための養育係である(ガラテヤ3:24)

・モーセ五書(あるいは聖書全体)の中心は祝福の約束(創世記12:1〜3)である。十戒等のモーセ律法を中心にすえた読み方(道徳読み)をすると聖書を正しく理解できなくなってしまうので注意すること

※ヤコブの子ヨセフがエジプトに奴隷として売られたこと、モーセがホレブで神の召命を受けたこと、自分の息子に割礼を施していなかったためにモーセが神に殺されそうになったこと、イスラエル民族がエジプトを出たことはみな、アブラハムへの祝福の約束に基づいている
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タグ:「律法」
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2011年03月23日

宗教による取り繕いは呪いのもとにある

翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかには何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。イエスは、その木に向かって言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」(マルコ11:12〜14)

このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。(創世記3:7)

神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。(創世記3:21)

エデンの園において、罪を犯したアダムとエバは、いちじくの葉をつづり合わせて自分たちの恥を覆い隠そうとしました。いちじくの葉は宗教による取り繕いを象徴しています。神は、アダムとエバが開発したいちじくの葉による腰の覆いを良しとはしないで、地に呪いを宣告した後、イエス・キリストの十字架死を象徴する皮の衣を作り、アダムとエバに着せました(創世記3:21)。

イエスは、葉のほかには何もないいちじくの木を呪いました(マルコ11:21)。イエスもいちじくの葉を良しとはされませんでした。いちじくの葉の存在は呪いの宣告を回避しませんでした。神は、宗教と宗教による取り繕いから生じる実を枯らされます。ユダヤ教のみならず、キリスト教も例外ではありません。

神の願いは、私たちが“キリスト教の教え”に賛同し、洗礼を受けてキリスト教徒となり、善良な人間に更正していくことではありません。そのような宗教路線は人の目には良いものに見えたとしても、いちじくの葉にすぎないものであり、神の目には依然として呪われたものです。

神の願いは、私たち一人一人がキリストの死と結びついた信仰を持ち、キリストの死を認識し、キリストの死の中にとどまり続ける歩みをすることです。このような前提があってはじめて、人は神に受け入れられる実を結ぶことができるのです(ヨハネ15:5)。「罪を犯して神を悲しませる私」だけでなく「善を行って神を喜ばせようとする私」も死に渡されなければなりません(ローマ7章)。この十字架路線は人の目には愚かですが、神の目には尊いものです。

クリスチャンになるとは、神から皮の衣を着せてもらうこと、すなわち、キリストの血にあずかり、キリストの死にあずかることです(ヘブル10:22、ローマ6:3)。“キリスト教”という宗教の呪いから私たちを救えるのは、十字架の福音しかありません。
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2011年03月09日

イエス・キリストとキリスト・イエス

@「イエス」と「キリスト」

神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された御霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。(使徒2:32〜33)

ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。(使徒2:36)

イエス・・・・・地上での名 御子がマリヤから誕生した時に与えられた名
        人の子としての名

キリスト・・・・復活後、油注がれた時に与えられた名

※聖書が人としての御子に言及する場合は「イエス」と呼ぶ

※復活後の御子は「キリスト」「主」のどちらかで呼ばれている

※使徒行伝と書簡の中で「イエス」と呼ばれている箇所があるが、それは彼の人性を言っている特別な場合である

※現在の私たちは単に「イエス」と呼ぶのではなく、「主イエス」と呼ぶべきである

A「イエス・キリスト」と「キリスト・イエス」

しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。(Tコリント1:30)
イエス・キリスト・・・・復活前における名 地上における人としての名
            「人として生まれたイエスが将来キリストになる」の意味
            
キリスト・イエス・・・・今日における名 「現在のキリストは以前のイエスである」の意味

※私たちは「キリストの中」にいることはできるが、「イエスの中」にいることはできない

⇒私たちは地上における主(=イエス)とは連合していない

⇒聖書に「キリスト者」はあるが、「イエス者」はない(使徒11:26、26:28)

⇒「イエス」は個人名である。「キリスト」は個人名であると同時に団体名でもある。

⇒Tテサロニケ4:14の「イエスにあって眠った人々」は「イエスを通して眠った人々」「イエスによって眠った人々」と訳されるべきである

※私たちは「キリスト・イエスの中」にいることはできるが、「イエス・キリストの中」にいることはできない

⇒私たちがイエス・キリストの中にいたのであれば、私たちには十字架の罪の贖いにも分があることになってしまう(私たちは人を救うというイエスの働きにはあずからない)

神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。(エペソ1:3〜4)

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。(ローマ8:1〜2)


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