2011年02月25日

神の愛の二つの側面

「命の書に名が記されていない者は誰でも、火の池に投げ込まれた」

カルバリはこの世に対する神の愛の大きさであり、地獄はキリストに対する彼の愛の大きさである。なぜなら、神は彼の御子をカルバリに渡すほどこの世を愛されたからであり、御子を拒絶する者は誰でも地獄に渡されなければならないほど御子を愛しておられるからである。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

「神は御子をカルバリの十字架に渡すほど世を愛された」という側面を好んで強調するがあまり、「神が御子イエスを愛しているがゆえに、御子イエスを拒絶する者は地獄に引き渡す」という側面が省略されてしまうことが多いのではないでしょうか。

その結果、ヨハネ3:16から「御子を犠牲にするほど世を愛した神が、人を地獄に引き渡すわけがない」「神は愛だから、人はキリストの十字架を通してでなくとも救われる」等の偽りが生み出されてしまうのです。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Tヨハネ4:9〜10)

神の愛は「十字架につけられたイエス・キリスト」という形で世に送られてきました。十字架のキリストを拒絶することは神の愛を拒絶することです。十字架のキリストを受け入れることは神の愛を受け入れることです。十字架のキリストと神の愛は切り離すことができません。人間の愛は人間を中心に据えますが、神の愛は御子イエス・キリストを中心に据えます。
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2011年02月20日

沈黙しか与えられないとき

クリスチャンとしてのあなたの人生に助けとなるに違いないものを、持ちつづけられるようにとあなたは祈りました。それを大切にとっておくことができるようにと、あなたはお願いしました。そして突然、いっさいが粉々に砕けました。けれども、それが、神の答えでした。

イエス・キリストから沈黙しか与えられないときは、覚えておくといいでしょう。わたしたちは自分で思っている以上に、より大きな啓示を受けることのできる人間だということを、主が知っておられるしるしなのです。もし、ちょうど願っているとおりの答えが与えられるときは、主はあなたをまだ信頼できないままでいます。
オズワルド・チェンバーズ
【ひとこと】

思い起こせば、クリスチャンになったばかりの頃は、祈ると神からビシビシ答えが来たような気がします。祈りの中では神の臨在感を感じ、聖書を開けば、御言葉の個人的な語りかけを受けることができました。

やがて年月の経過とともに、“臨在感”や“天的な感覚”はフェードアウトしていき、私に対する神の口数は徐々に減少していったという感じでしょうか。それに伴って、それまでの感覚的・感情的な歩みから信仰による歩みへのシフトがせまられ、私の目は神が語られる言葉だけではなく、神ご自身に向けられるようになっていきました。

現在も、神の沈黙が続くと「はたしてこれは神の沈黙なのだろうか?それとも神は語っておられるのに自分が聞けていないのだろうか?間違ったことを祈っているのだろうか?」と困惑することがあります。考えてみると、多くの祈りは神を沈黙させないためにしているような気がします。「沈黙が気まずい関係」といいましょうか。

生まれながらの性質にとって「信じるなら神が動き出す」という種類の信仰は歓迎できても、「沈黙の神に信頼する」という信仰は耐え難いものなのでしょう。沈黙しか与えられないとき、なんとか沈黙を解消しようとしがちですが、沈黙される神に信頼し、「より大きな啓示」に期待することも必要なのだと思わされました。

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posted by クマ郎 | Comment(0) | TrackBack(0) | 祈りについて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月16日

教会が勝利する助け合い、教会が敗北する「助け合い」

モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。

しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。(出エジプト17:11〜12)

クリスチャンの兄弟姉妹の関係を映し出している箇所だと思う。ある兄弟が問題を抱えているとき、周囲のクリスチャンがその問題について直接的な助けを与えることが必要とされる場合もあるが(ヤコブ2:15〜16)、これは応急処置的な助けであろう。クリスチャンが他の兄弟に与えるべき本質的な助けは、他の兄弟自身が問題を抱えたままで神の御前に出て行き、彼自身が神との関係に入れるように助けることである。

アロンとフルがモーセの手をささえたように、クリスチャンは他の兄弟姉妹が神に向かって手を上げるのを助けるべきである。すなわち、他の兄弟姉妹ひとりひとりが神の御前に出て行き、神と直接的な関係を築き上げていけるように互いに助け合うのである。これは他の兄弟姉妹の問題に対して間接的な助けを与えていくことであるといえるだろう。

クリスチャンが抱える問題の中には、「すぐに解決してはならない問題」というものが存在する。クリスチャンが神の聖さにあずかるためにどうしても必要とされている問題があるのだ(ヘブル12:10〜11)。窮乏に陥った兄弟姉妹に対して、応急処置としての助けを与えないのは問題であるが、クリスチャンが応急処置を超えた助けや人間的な慰めを与えてしまうことによって、神との直接的な関係を持つ機会を兄弟姉妹から奪い去ってしまうことは、さらに深刻な問題を生じさせる。

クリスチャンは他の兄弟姉妹を「神へと」助けるべきであり、「自分が」助けることによって、他の兄弟姉妹の「神」になってはいけない。
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