2011年01月28日

イサクとイエス(2)

Gイサクは「死者の中から復活した後」、異邦人の妻リベカをめとった
そのころ、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。私はあなたに、天の神、地の神である主にかけて誓わせる。私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクの妻を迎えなさい。」(創世記24:2〜4)

イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカをめとり、彼女は彼の妻となった。彼は彼女を愛した。(創世記24:67)

イサクは異邦人の妻リベカをめとった

※「カナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない」・・・ノアはカナンを呪い、セムを祝福した(創世記9:25〜27)。アブラハムはセム系。

⇒死者の中から復活したイエスは、異邦人の教会を花嫁としてめとった
「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会をさして言っているのです。(エペソ5:31〜32)

※イサクが異邦人の妻リベカをめとる前に、アブラハムの妻サラが死んだのは、神の「妻」であるイスラエルが一時的に退けられたことの型(ローマ11:9〜15、25〜26)

Hイサクはリベカを愛した
イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカをめとり、彼女は彼の妻となった。彼は彼女を愛した。(創世記24:67)

⇒イエスは教会を愛した
夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。(エペソ5:25)

Iイサクがいけにえとして捧げられたのは「モリヤの山」
神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」(創世記22:2)

こうして、ソロモンは、主がその父ダビデにご自身を現わされた所、すなわちエルサレムのモリヤ山上で主の家の建設に取りかかった。彼はそのため、エブス人オルナンの打ち場にある、ダビデの指定した所に、場所を定めた。(U歴代誌3:1)

イサクがささげられた場所は「モリヤの山」(=のちにゴルゴタと呼ばれるようになる)

⇒約2000年後、神のひとり子イエスは同じ場所(エルサレム郊外のゴルゴタ)で十字架につけられた
【モリヤの山での出来事】

アブラハムがモリヤの山でイサクを全焼のいけにえとしてささげた(=イエスの死と復活を予表)
               ↓
イスラエルの民に下った神罰を引き受けることを申し出たダビデが、モリヤ山上にあるオルナンの打ち場を買い取ってそこに祭壇を築き、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげると、神罰は止んだ(=イエスの身代わりの死による贖いを予表)
               ↓
ソロモンは、モリヤ山上のオルナンの打ち場にある場所に神殿を建設し、罪を犯したイスラエル(と異邦人)がこの場所で悔い改めて祈るとき、神が罪を赦してくだよさるように祈った(=イエスのとりなし、イエスの十字架の贖いによる罪の赦しを予表)
               ↓
イエス・キリストは、モリヤの山であったエルサレム郊外で十字架につけられた(=本体)
               ↓
イエス・キリストは、ご自分のいのちを犠牲にして私たちの罪の身代わりとして死んで神の刑罰を受け、三日目に死者の中からよみがえられたまことの「アブラハムの子孫」「ダビデの子孫」である

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2011年01月23日

イサクとイエス(1)

@イサクは父アブラハムの愛する「ひとり子」であった
これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」(創世記22:1〜2)

イサクはアブラハムの愛する「ひとり子」であった

⇒イエスは父なる神の愛するひとり子であった
こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:16〜17)

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

Aイサクは父に与えられた約束と祝福を受け継ぐ子
わたしは、わたしの契約を、わたしとあなた(アブラハム)との間に、そしてあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。(創世記17:7〜8)

わたしは確かにあなた(アブラハム)を大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。(創世記22:17〜18)

神の約束と祝福はアブラハムに与えられた

アブラハムの死後、神は彼の子イサクを祝福された。イサクはベエル・ラハイ・ロイの近くに住みついた。(創世記25:11)

イサクは父アブラハムに与えられた約束と祝福を受け継いだ

⇒イエスは、アブラハムへの約束と祝福を受け継ぐ「ひとりの子孫」「アブラハムの子孫」
ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。(ガラテヤ3:16)

アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。(マタイ1:1)

Bイサクは「いけにえ」として捧げられた
神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」(創世記22:2)

「あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」(創世記22:12)

⇒イエスは罪のためのいけにえとして捧げられた
この方(イエス)こそ、私たちの罪のための――私たちの罪だけでなく、世全体のための――なだめの供え物です。(Tヨハネ2:2)

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Tヨハネ4:10)

しかし、彼(イエス)を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。(イザヤ53:10)

Cイサクは死に至るまで父に従順であった
アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った

イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた

ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇のたきぎの上に置いた。アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。(創世記22:6〜10)

⇒イエスは死に至るまで御父のみこころに従順であった
ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。(イザヤ53:7)

キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(ピリピ2:8)

Dイサクは「木」を負った
アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。(創世記22:6)

イサクはたきぎという「木」を負った

⇒イエスは十字架という「木」を負った
そして、イエスはご自分で十字架を負って、「どくろの地」という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。(ヨハネ19:17)

Eイサクは「三日間」死んでいた
翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。三日目に、アブラハムが目を見上げると、その場所がはるかかなたに見えた。(創世記22:3〜4)

アブラハムの心の中で、イサクは三日間死んでいた

⇒イエスは「三日間」死んでいた
キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。(Tコリント15:3〜5)

※「聖書に従って三日目に」とは、創世記22:4の「三日目」を指す

Fイサクは「死者の中から復活した」
彼(アブラハム)は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。(ヘブル11:19)

父アブラハムはイサクを死者の中から取り戻した

⇒父なる神はイエスを死者の中からよみがえらせた
しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。(使徒3:15)

キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。(Tコリント15:3〜5)
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2011年01月21日

神の親切

もしも神が、私たちの祈りのいくつかを即座に、また、私たちの願った通りにかなえてくださるほど不親切なお方だったとしたら、私たちは非常に貧弱なキリスト者となるはずである。

幸いなことに、時として神はご自分の答えを遅らせることがおありになる。それは、利己心や、私たちの生き方にあるべきでない物事をお取り扱いになるためである。

神は私たちに気を配っており、私たちを、ご自分の王国の中でずっと豊かな立場に着くのにふさわしい者にしようと意図しておられる。
D.M.ロイドジョンズ

【ひとこと】

もし、祈りがいつも即座に、しかも自分の願った通りにかなえられていたとしたら、おそらく私は、神を信じるのではなく、自分の祈りや願い自体を信じるようになっていたと思います。自分自身を吟味したり、神がどういう方であるかを知ろうとすることもなくなっていたでしょう。

また、これまでの「即座に答えられた祈りで得た恵み」の総量と「祈りの答えの遅延あるいは私の当初の願いが拒絶されることによって得た恵み」の総量を比較すると、明らかに後者の恵みのほうが「大きく」「深く」「重く」「永続的」です。

祈りが即座に答えられることや、こちらの願いどおりの結果になることは喜ばしい経験ですが、月日が経つと何も残っていないことが多いのです。バブルがはじけてしまうといいましょうか・・・

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