2010年02月28日

「祈るとき、同じことばをくり返してはいけない」の本質

また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。
だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。(マタイ6:8)


「祈るとき、同じことばをただくり返してはいけません」という御言葉に注目した結果、祈りの生活に混乱が生じてしまったことがないだろうか。

同じことをくどくど祈っている最中に、この御言葉を思い出して「そうだ!同じ言葉を繰り返すべきではないのだった。神は耳が遠いわけではないし・・・」と理性を働かせ、“同じ言葉を繰り返さない祈り”に切り替える。

その後しばらくの期間は、“同じ言葉をくり返さない祈り”を続けるのだが、気がつくとまた“同じ言葉をくり返す祈り”に戻ってしまっている・・・

そこで、祈りについてのさまざまな教えを聞く。しかし、教えを聞けば聞くほどますます混乱してしまう。ある時は「イエスとパウロは三度(何度も)祈った。クリスチャンもこのように粘り強く祈るべきである」と教えられ、またある時は「一度だけ祈って、すでに受けたと信じて感謝しなさい。繰り返し祈るのは不信仰」と教えられる。困ったことに、それらの教えにはそれぞれの聖書的根拠のようなものがあるのである。

しかし、同じ言葉を何度もくり返して祈っていた人が、同じ言葉をくり返さない祈りに切り替えたとしても、結局のところ、「言葉数」によって神に聞いてもらおうとしていることに変わりはない。それは言葉数が少なければ聞かれると思っていることだ。「主よ。私は同じ言葉を2回以上繰り返さずに祈っていますから、私の祈りを聞いてください」というセコい取り引きをしているのである。

一回だけ祈って「すでに受けたと信じて感謝します」と繰り返し唱えているのも同じである。「すでに受けたと信じ感謝します、感謝します、感謝します」の言葉を繰り返すことによって、神に聞いていただこうとしているのだから。(信じて口で告白すること自体は良いことであるが)
私たちは動作だけを見るのでなく、動作を導く本質を見なければならない。

では、このマタイ6:8の「同じことばを繰り返さない祈り」の本質はどういうことなのであろうか? 以下の囲み線内はロイドジョンズの「一日一言」からの引用である。
私たちには、子どものような信仰が必要である。神が真に私たちの御父であるという、この確信が必要である。それゆえ、私たちは、厳密に排除しなくてはならない。自分の嘆願は何度も繰り返さなくてはならないのだ、それを繰り返すことによってこそ祝福が生み出されることになるからだ、といったいかなる考え方をも。

神は、私たちが自分の熱望を示すことを喜ばれる。あることについて、私たちが何を不安に感じているか、何を願っているか示すことを喜ばれる。私たちに、「義に飢え渇」くよう、また、それを求めるよう告げておられる。私たちは、「祈るべきであり、失望してはならない」と告げられている。「絶えず祈」るよう告げられている。しかり。だが、それは機械的に繰り返すということではない。「ことば数が多ければ」聞かれるのだと信じることではない。

こうわきまえて祈ることである。神は私の御父であり、喜んで私を祝福してくださるのだ。神は、私が欲する以上に与えたいと欲しておられ、私が幸福になるように常に気を配っておられるのだ、と。私は神を自分の御父であると見てとらなくてはならない。キリストにおいて私の究極的な益を獲得してくださった御父、キリスト・イエスにおいて私をご自分の満ち満ちた豊かさで祝福しようと待ち構えている御父であると。

それで私たちは信頼しつつ自分の願い事を神に知っていただくのである。自分が語り出す前から、神はそのすべてをご存知であると知りながらである。しかし、気を揉みながらやって来てはならない。私たちは知らなくてはならない。私たちが与えられたいと欲する以上に、神がはるかに与えたいと欲しておられることを。

おお、神の子どもたちのために、神の右の御手のもとに蓄えられている数々の祝福の何と豊かなことであろう。王子となるべきでありながら乞食でいる私たちは、何と恥ずべきであろう。この件において、これほどしばしば神についてふさわしくない、誤った考えをいだいている私たちは、何と恥ずべきであろう。それはみな恐れに起因している。また、この純真さ、この信仰、この信頼、この、神を私たちの御父と知る知識が欠けているためである。それさえあれば、神の祝福は私たちに注ぎ始めるであろう。

そして、それがあまりにも圧倒的なものとなるため、私たちはD.L.ムーディーとともに、自分の肉体がほとんど耐え切れないほどであると感じ、神に向かって、「神よ、もうお止めください!」と叫ぶこともありえる。

神は、私たちの願うところ、思えるところのすべてを超えて豊かに私たちに施すことがおできになる。それを信じて、単純な信仰をもって神のもとへ行こうではないか。

祈りにおいて重要なのは、「どのように祈るべきか」という自分の祈り方に目を向けるのではなく、祈る対象である「お方」に目を向けなければならないということだ。

それもただ「神というお方」に目を向けるだけではなく、「父である神」に目を向けて、霊的な親子関係の中に入って祈ることが必要とされている。

生まれながらの私たちが神に抱く印象は「父」ではなく、「不親切な友人」(ルカ11:5〜8)あるいは「不正な裁判官」(ルカ18:1〜8)であろう。そうであるからこそ、私たちは祈るのをすぐに止めたり、あるいは逆にくどくどと同じ言葉をくり返して祈ってしまうのではないだろうか。

私たちは自らの貧しさによって父なる神を推し量っている。私たちは物乞いをする乞食のようであり、王子のようではない。私たちの熱心な祈りの多くは、信仰の祈りではなく、父なる神に対する誤解・不信の表明にすぎないのではないだろうか。

しかし、私たちがそのように父なる神を誤解しているからこそ、私たちは祈る必要があるのだと思う。人間関係で誤解が生じている場合、実際に相手に会って話をし、相手の誠実さに触れることによって誤解は解ける。神に対する私たちの一方的な誤解も、祈りの中で父としての神に出会い、その真実な人格に触れることで解くことができる。祈りによって御父との関係に入って行く必要があるのだ。

ヨハネ8:42には「神があなたがたの父であるなら、あなたがたはわたし(イエス)を愛するはずです」とある。その他の聖書箇所でも、人が間違ったことを行なうのは、御父を知らないことが原因と書いている(ヨハネ15:21〜24、16:3)

私たちの根本的な問題は、「父としての神」を知らないことにある。
私たちは「天の父よ」「父なる神様」という言葉を用いて祈ることに慣れているが、「父」という言葉によって表現されている神の人格を知らない。あるいは父としての神を知ろうともしていない。「天地万物の造り主」「全知全能の神」と「父」が結びつかない。多くの場合、私たちは父なる神と関係のないところで熱心に祈っている。

神は喜んで私を祝福してくださる「父」であり、神は私が幸福になるように常に気を配っておられ、私が与えられたいと欲する以上に、神ははるかに与えたいと欲しておられる「父」であることを本当に知れば、私たちのほとんどすべての問題は解決されてしまうに違いない。

このような「父」に向かって祈ること、このような「父」に信頼して祈ることが「同じことばをくり返さない祈り」の本質ということになる。“御父に対する信頼”という本質があれば、もはや言葉数はどうでもよい。言葉数は本質の結果にすぎない。

私たちは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としての御霊を受けた。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼ぶ(ローマ8:15、ガラテヤ4:6)。「天のお父様」「父なる神様」の言葉が空しく繰り返される祈りの生活から解放されなければならない。単純な信仰をもって、私たちを祝福しようと待ち構えている御父との関係の中に入って行くべきなのだ。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
web拍手 by FC2
posted by クマ郎 | Comment(0) | TrackBack(0) | 真理の学び 祈り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月25日

クリスチャン古典ライブラリー追加されています

オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー」に、

オースチン-スパークス「霊的視力
オースチン-スパークス「ルツ記注解

が追加されています。

ペン・ルイスの「開かれた天」とA. B. シンプソンの「キリスト生活」も以前はなかったと思うのですが・・・

いずれも十字架の死と復活を中心に据えた貴重なメッセージであり、おすすめです。
少人数で集まって、これらのメッセージを分かち合うのもよいと思います。

P1000107.JPG
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
web拍手 by FC2
posted by クマ郎 | Comment(2) | TrackBack(0) | 真理の学び その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

その代わりに、主を信頼しなさい

「神の導きを理解しようと思わないでください。また、あなたにとって無意味に思われる道、暗闇と混乱に至る道、あるいは行き先が隠されている道に、なぜ主があなたを導かれるかを尋ねるのを止めなさい。

その代わりに、主を信頼しなさい。主は全知、また愛に満ちた永遠の神で、あなたの父なる方であられます。その心は愛そのもので、その御心は善であることを知りなさい。

あなたはあたかも混乱の中をさまよっているかのように感じるかも知れませんが、主は知恵ある永遠の計画に従ってあなたをすばらしいゴールへと導いておられます。

愛であり真理であられる神は決して自分の子供を混乱には導かれません。ですから主があなたにもそうなさるはずはありません。あなたからそう見えるだけです。

信頼して主を待ちなさい。そうすれば、この一見無意味な道が、深い意味を持っていることが分かるでしょう。神はあなたを畏敬と驚きで満たす結末を用意しておられます。というのは、主にあって苦しみは決して最後のものではないからです。」
バジレア・シュリンク

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村
web拍手 by FC2
posted by クマ郎 | Comment(0) | TrackBack(0) | 苦難・試練の時に | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
タグクラウド
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。

クリスチャンウェブリング
前へ | ホーム | ランダム | 次へ