2009年09月27日

クリスチャンになることは、新しい運動の一部になることではない(クリスチャンとは何か?B)

<消極面―クリスチャンは何ではないか(3)>

相当数の人は、キリスト教のことをこの世を改善したり福音化したりするための大きな企てだと思っています。「来て、この偉大な『働き』に参加しなさい」という訴えが頻繁になされます。ほとんどの人がこのような訴えに応答し、大きな運動に加わろうとすることもあります。

しかし、このようなアプローチのしかたは問題を招きますし、あるいは少なくとも間違っていることが遅かれ早かれわかります。

モーセは「運動」を起こすことをエジプトで思いつきました――しかし、その後40年間、荒野で休止することになりました。

「運動」に先立つものがあるのです。そして、その運動は神によるものであって、私たちによるものではありません。神の時が来る時、運動が始まります。その運動の最も重要な意義は、神なしでは動かないことを学ぶ、ということがしばしばです。

私たちは「運動に加わりなさい」とあなたに訴えることはしません。「あなたの天然の力と若い情熱をすべて注ぎ込めるものがここにあります!」と言って若者を招くこともしません。

私たちはこう言います、「神には御旨があります。この御旨との関連で、神はあなたに関心を持っておられます。

しかし――あなたを別人にする何かがあなたの中に起きない限り、あなたはその御旨を知ることすらできませんし、それにあずかることもできません。その御旨には天然の力や若い情熱以上のものが必要なのです」
T.オースチン-スパークス著「クリスチャンとは何か?」から転載
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クリスチャンになることは、「教会」と称されている組織に加わることではない(クリスチャンとは何か?A)

<消極面―クリスチャンは何ではないか(2)>

もし真理が知られていたら、クリスチャン教会に「加わる」というようなことはなかったでしょう。

私たちは自分の手足を自分の体の肢体にするために、言葉や行いによるいかなる手続きもしたことがありません。私たちの肢体と私たちの体には区別がありません――私たちの肢体が私たちの体を構成しています。

しかし、これは組織、招き、審査、審問、教理問答によってではなく、ただいのちによってです。キリストの教会も同じです。

ただしこれは、真のいのちの関係がある場合です。専門的意味合いの「会員資格」は不必要なものであり、脅威ですらあるかもしれません。この関係がないなら、いかなる「会員資格」もキリストの教会を構成することはできません。

多くの人たちは、いわゆる「教会」の「会員資格」を持っていますが、試金石に耐えることができません。この試金石については、クリスチャンとは何かについて話す時に示すことにします。ここでは、「クリスチャンになるよう人々に訴える時、私たちは『教会に加わる』よう人々に求めているのではない」と言っておきましょう。

キリスト教は単なる組織や社交界の一つではないことが理解されなければなりません。あなたは「教会」と称されている多くの場所に行くかもしれませんが、キリストと真に出会うことも、満足を見いだすこともないかもしれません。

もちろん、これは消極的です。しかし、私たちは次のことを理解しなければなりません。

すなわち、私たちがクリスチャンになる時、私たちは再生された他のすべての信者たちと共にキリストにある一つのいのちを共有するのであり、そうして私たちはキリストの中で一つになるのです。これこそまさに教会です。

ですから私たちはこの関係を大切にし、それが破られないよう油断することなく見張らなければなりません。それには大きな価値があります。
T.オースチン-スパークス著「クリスチャンとは何か?」から転載
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クリスチャンになることは、新しい「宗教」を取り入れることではない(クリスチャンとは何か?@)

<消極面―クリスチャンは何ではないか(1)>

真のクリスチャンになることは、信条や教義文を受け入れることでも、一定の儀式や決まりを守ることでもありません。

また、一定の奉仕や祭典に参加することでも、規定された生活様式に順応するべく多少なりとも励むことでもありません。

これらのことに精通し、多くの良い働きをしていたとしても、当人は依然として新約聖書が言う真の「クリスチャン」の範疇外にあるかもしれません。「神に受け入れられている」と思い込む危険性があるのです。この思いこみは苦い幻滅という結果になるかもしれません。

主ご自身がこれを次のような驚くべき言葉であらかじめ語られました、
「その日には、多くの者が私に言うであろう、『主よ、主よ、私たちはあなたの御名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか?』。そこで私は彼らにはっきり言う、『私はあなたたちを全く知らない。私から去れ』」(マタイによる福音書7章23、24節)

いいえ、宗教はキリスト教ではありません。それ以上でもそれ以下でもありません。宗教はたんなる欺きかもしれません。

ですから、人々にクリスチャンになるよう求めている時、私たちは彼らに自分の宗教を変えるよう求めているわけではありませんし、宗教的になるよう求めているわけでもありません。このような宗教は、これまで決してこの世を幸いにしたことはありませんし、良くしたこともありません。
T.オースチン-スパークス著「クリスチャンとは何か?」から転載
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